2019年7月31日水曜日

瞑想4カ月で7割の人が悟りの領域に!?TransTech Conferenceから

恐れが少なく「どんなことがあっても自分は大丈夫だ」という基本的幸福感(fundamental well being)を保つということは、どういう状態なのだろうか。米ソフィア大学のJeffery A. Martin教授が、悟っている人、基本的幸福感を持っている人を2500人以上調査した結果、前回の記事に書いたように、悟り(心理学用語では「継続的非記号経験=PNSE」)に達した人には共通の体験があり、悟りには一定の継続的な段階があることが分かった。同教授はまた、PNSEに入る前と入った後の変化を調べるために、オンラインの瞑想プログラムを開発。同プログラム受講者の7割が4カ月でPNSEに入ることができたという調査結果を発表している。悟りはごく少数の修行者だけが到達することのできる境地と思われがちだが、同教授は「自分に合った瞑想方法とさえ出会うことができれば、ほとんどの人が短期間にPNSEに入ることができる」と語っている。



▼「継続的幸福感」が悟りへの入り口

前回の記事を読んでいない人にとっては、ほとんどの人が悟りに入れるという話は、にわかに信じがたいことだろう。一般的な日本人がイメージする「悟り」とは、我欲の一切ない仙人のような人も心の状態なのかもしれない。しかし前回の記事にあるように、仙人のような境地はPNSE(「悟り」を意味する心理学用語「継続的非記号経験」)の4段階目以降。最初の3段階は、いわゆる人間らしさが残っている段階だ。

ではPNSEに入っている人と、入っていない人では何が違うのか。根本的に違うのが、心の奥底にある感覚。PNSEに入っていない人の心の根底には「欠乏感」「恐れ」があり、入っている人には「常に満たされた感覚」「根本的幸福感」があるのだ、と同教授は指摘する。

ここで重要なのが「常に」という表現。人生は山あり谷あり。でもたとえ悲しい出来事が起ころうとも、心の奥底には静かな幸福感が流れていて、他人や運命を責めることはない。そういう幸福感が「根本的幸福感」であり、そういった幸福感を常に持つには、雑念が少なく心が澄み渡っている状態でなければならない。PNSEに入った人に共通する体験として、「雑念が大幅に少なくなる」というものがあるが、雑念のない心静かな状態だからこそ、心の奥底にある幸福感を味わうことができるのだろう。



▼自分に合った瞑想法がキモ

さて本題に入ろう。7割の人が4カ月でPNSEに入れるオンライン瞑想プログラムとは、どのようなものなんだろう。名称はFinders Courseで、各宗教などで使われている祈りや瞑想方法など伝統的な手法から25の方法を選び、宗教色を排除して現代風にアレンジ。それを、一日一時間、4カ月継続するというものらしい。最初の6週間は、自分に合った瞑想方法を試す期間。同じ瞑想法を1週間ほど続けてみて、普段の心のありようが変化するかどうかを観察することで、自分に合った方法かどうかを試していく。普段の生活でもいつもより心が穏やかで幸福感を感じるのであれば、その瞑想法が自分に合っている証拠。自分に合った方法が見つかれば、残りの期間でその瞑想方法を続けていくのだという。

Finders Courseはこれまでに11回開催。総受講者は454人という。心理学の代表的なテスト手法を使ってPNSEに入っている人と同等の数値が出るかどうかを調べたところ、オンライン瞑想プログラムを受講したことでPNSEに達した人は、319人になった。約7割が「悟り」のプロセスに入ったわけだ。



幸福度は、代表的な心理学の感情検査「全体的な幸福度に関する調査票(AHI)」で計測したが、受講前の数値の平均が3.17だったのが、受講後には3.71に上昇。17%の変化を記録した。「統計的に意味がある数字かどうか。もちろん、非常に意味のあるレベルだ。心理学の研究者なら分かると思うが、4カ月のオンライン瞑想コースとしては、これは驚異的な変化だ。学会で紹介すると、多くの研究者が驚愕するほどだ」と話している。



また「寂しさ」はポジティブ心理学のPERMAで計測。結果は47%も減少している。情緒不安定性は、31%も減少している。



意外なのが、「感謝」の変化が少ないこと。受講前と後とでは7%しか数値に変化がない。「PNSEに入ると感謝の思いが強くなりそうに思いがちだが、実際の変化はそれほどでもない。瞑想が万能薬ではないことが分かる」としている。



▼筋トレも脳トレも短期間で成果を出すことが可能

僕自身、瞑想は数年前から継続的に実践してきているので、この研究結果は非常に興味深い。個人的な感想をいくつか書いてみたい。

まず4カ月で7割の人がPNSEに入ったことには驚いた。瞑想の成果を感じれるようになるまでに、少なくとも2、3年はかかると思っていた。

しかし考えてみれば、肉体改造でもパーソナルトレーナーをつけてフィットネスクラブに毎日通えば、3カ月ほどでかなりの効果がでる。瞑想はいわば、脳のトレーニング。脳のトレーニングも、パーソナルトレーナーをつけることで、それなりの効果が出るということなのかもしれない。

また自分に合った瞑想方法を見つけることの大事さには、完全に同意。僕自身は、スローなヨガを通じた瞑想が一番簡単だし、最近ではサウナの温冷浴を3セットしたあとの休憩での瞑想が、一番深く入れるように思う。人によってはジョギングのあとの瞑想や、水泳、サーフィン中の瞑想なども効果があると思う。友人の中には瞑想の習慣がないにも関わらず、明らかにPNSEに入ってる人が何人もいる。心を静かにする習慣さえあれば、多くの人が「根本的幸福」の状態に達することができるのだと思う。

2500人の悟り人の聞き取り調査で、PNSEに入ったきっかけで最も多いのが、病気や事故、自殺未遂など、劇的な出来事。Martin教授は「自分のことを徹底的に客観視することでPNSEに入ったのではないか」という。一方で、瞑想などの自助努力でPNSEに入った人は、ごくわずか。つまり一部の宗教家を除いて、これまで悟りは偶発的なもので、悟りたくてもなかなか悟れないものだった。

ところがFinders Courseで、自分に合った瞑想方法を数カ月実践すればほとんどの人がPNSEには入れることが分かった。誰でも望めば、「欠乏の感覚」から「満たされた感覚」へと移行できることが証明されたわけだ。過度の経済競争、軍事的脅威など、現代の問題の多くは「欠乏の感覚」に端を発していると言ってもいいだろう。もし多くの人が「満たされた感覚」に移行すれば、社会問題のほとんどは自然に解決していくかもしれない。

Google社内でマインドフルネスを流行らせたChade Meng-Tan氏は、満たされた感覚の人を100万人増やしたいと考えている。TransTech Conferenceの主催者は10億人作ろうとしている。

しかし社会が大きく変化するには、4カ月の瞑想よりもさらに簡単な手法が求められている。そうでなければ悟り人10億人の時代など、まだまだ先の話だ。

次の記事では、もっと多くの人が簡単にPNSEに入れる技術の開発の最前線をレポートしたい。

https://aishinbun.com/clm/20190104/1905/

識中に自己を忘ず  井上義衍老師語録

全てのものは、それぞれにおいて、そのもので解決済みのものである。その外にはない。
この故に万物は存在しており、さらに疑うところはない。また、これほど確かな事実はない。今を今の外に求めようはない。求めざれども今なり。
 
然るに、人はこれに対して色々に疑いを起こし、この疑問を解明せんとし、あらゆる手段を尽くしてこの問題に取り組んでいる。然るに、過去無量劫来から今日に至るまで、何人も満足なる解決をした人がない。
いかなる問題をどのように論じてみても、いかように立派な説を立て、結論を出してみても、人の立てた結論によっては、決定的な無条件での満足は得られない。それは、その思うことが妨げているからである。
 
人類の全てが、この無条件で満足の出来る道を求めて止まない。然るに、この目的が達し得られない。人はこの矛盾に永久に悩まされて行く。これが人類最大の悩みである。人類発生以来の悩みである。
文化の進展につれて、この問題は益々大きな問題となるものであるが、これは人間が人間として、人間的な態度でしては、決して解決の出来る問題ではない。これは人間の全てが既に経験をして今日に及んでいるはずである。それだからといって、この問題を放置しておくことは益々出来ない。そこで、人はこの矛盾に苦しむのである。これが文化人の最大の苦しみである。
哲学者も芸術家も宗教家も、これが最終的課題となっている一大問題である。
  
仏教では、この疑問の起こる元を根本無明(むみょう)の煩悩という。この無明の煩悩が滅しない限り、人間の苦悩を完全に救うことは出来ない。たとえ百人千人が集まり、仏教学的に研究に研究を重ねて各々同一結論に達し、これらの人によって決定付けられ、学問として理論的に決定されて、各自これでよいと決めてみても、彼ら自身が、真実にこれで良いのかと自問自答する時、真面目な正直な考えを持つ学者であればあるほど、益々疑問が起き、自分自ら迷うのが落ちではあるまいか。 

かく考えてみればみるほど、人間は迷いに迷いを重ねて浮かぶ瀬なき哀れなる者となる。これが人を苦しめ悩ますところの根本無明の煩悩である。

かつて、釈尊が出世された当時も同じことであったことは、釈尊が苦悩されたことで分かる。この時、釈尊はこの人間苦の元たる無明の一大問題を問題として、これの解決のため王城を出られた。これが釈尊の出家である。
当時の出家修道者の有名人であるアララカラン、ウッダカ等に師事して、彼らの言う最後の空無遍所(くうむへんじょ)、非想非々想定(ひそうひひそうじょう)の境涯に達せられた。しかし、これは人間的な生活の全てを尽くしての訓練修行であった。
このことは、釈尊の疑問というよりは、人類全ての最大疑問たる、「真実とはいかなるものか」という、人間手放しでの満足に対しては、一文の値(あたい)にも当たらないので、釈尊も失望された。それは、無明が残されているからである。
 
その結果、釈尊はさらに自分自身、自らの真相を省みられた。ということは、今日までの問題は、およそ人間特有の無明のもとである認識が、認識としての問題の中を一歩も出られないこと――いわゆる、認識自体が認識自体の微妙かつ自在なる活動のために惑わされて、これから一歩も出ることなく、ただいたずらに認識上にあって、認識を問題にしていたということに気付かれた。
これは、人類の一大事件である。もしこの事(じ)なければ、釈尊の出世なし、これなければ世は暗黒ならん。すなわち、地球上にあって地球の全体を見んとすると同様、全く不可能であることは何人(なんぴと)も知るところである。従来の人は、識が識の混迷による誤りを誤りと知らず、今日の人もまたこの誤りを知らず、これに惑わされている。この発見こそ、釈尊の偉大なる前人未到の田地であり、人類苦の元を発見するの鍵であった。
 
釈尊はこれに目覚められた。この一大問題が過去の人々から取り漏らされていた重大な問題であったことに気付かれた。ここにおいて釈尊は、従来一般に人間修行最大の道と思われた苦行の道を捨て、健康の回復を図り、ついに尼蓮禅河畔(にれんぜんがはん)において、只管(しかん)に参禅されたのである。(只管とは、内に思うことなく、外諸縁を捨てて一切為すことなし。これ意識の中に自己を忘ずるの道である)
その坐禅は、弟子のラゴラに教えられたところによっても明らかであるが、各自が実際に徹してみれば自ずから明らかである。
 
それは、意識の中に自己を忘ずることであって、意識をなくすることではない。意識の中に自己を忘ぜよと教えられている。これ、大死一番大活現成(だいしいちばんだいかつげんじょう)の道である。すなわち、意識自体が純意識自体であるときに、自体が自体を知ることは出来ない。主体を主体と知ることも出来ぬところに、意識の主体すらも消滅するのである。眼(まなこ)眼を見る能わざるが如し。
 
 この確実かつ純粋なる道に徹するとき、無明は断絶する。それは、識自体が識以前の純然たる法性体(ほっしょうたい)の事実に直接に証せられて、認識の及び難きものなることをまさしく得たとき、得る要も捨つる要もなく、自信の要も全くなきことを得るからである。この時初めて、「今」の事実たる一大法界(ほっかい)が無条件で証せられ、この生活自体が法身(ほっしん)であることを自得するのである。この時、疑いようも信じようもない、その必要も全くなく、その欲求すらも起こらないものである。求心(ぐしん)の全く止む時である。
釈尊の明星一見大悟の事実がこれである。無明の絶滅である。これなくして仏教の真意、すなわち人及び物の真意を知ることは出来ないものである。 

 道元禅師が如浄禅師の会下(えか)におられた時、道元禅師の隣単で眠っている僧を浄祖が打って、「参禅はすべからく身心脱落なるべし」と、ここにおいてこの事(じ)を実証された。これによりて、道元禅師は意識以前の真相たる実相無相に徹せられたのである。この大事において、従来問題にされていた、「本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」たる法性の実相自体を自覚され、ここにおいて、「一生参学の大事全く畢(おわ)りぬ。一毫も仏法なし」と禅師は言われた。すなわち、無明の尽きたる脱落の実証である。
 
 今はこの人なきが如し。この一大事なければ、いかに仏の教えを説いてみても、自らが不安であるから信ずる力を借りなければならぬ。今は仏祖の教えに対する正直な人がいないのではないか。人類の安泰のためにも、この人を望むものである。このことは、誰でもやれば必ず出来るものである。
 今の多くの教えなるものは、みな意識上における意識の問題を、意識内において解決せんとしているが、それは不可能なことである。このことは、意識自体が自らの細工に過ぎないことを識自らが知っているからである。

  この一大事を得て、人類の苦悩の起こる元を明らかにせんことを要す。これが今日の最大急務である。しかもその道は開かれている。しかしながら、今の人はその道あることを知りながら、今人には古人のごとき道が実現するものではない、時代が違うと思っているのではないか。もし然りとすれば、大変な問題である。
 
 なんとなれば、道元禅師の言われた「人々の分上に豊かにそなわれりといえども、いまだ修せざるには現われず、証せざるには得ることなし」の言のごとく、これは虚言ではない。「利人鈍者を選ぶことなかれ」ともある。すなわち、今の全ての人々も、実は実相無相そのものの生活者自体であるからである。

 白隠禅師の言葉に、「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて‥‥」と、水の中にあって水を求むるこの哀れさをいかんせん。この事(じ)は、言うことは誰もが言うが、その事実を証明できる者が今日はいないので、これを求むる者に対して、手の下しようがなくて困っているのが実状ではないか‥‥。

 多くは、人間が人間として正しき道を踏み、自他共に人格者として許し得ても、それはそれだけの人である。立派な人ではあるが、ただし無明の根底を断じ得た人とは、全くその質を異にするものである。ただし、非人格者たれと勧めるのではない。無論道を学び、無明を断ぜんとする人において、非人格者たる筈はないと言えることは当然である。
 
 見よ、六祖下の永嘉禅師のごとき、『証道歌』に、「君見ずや絶学無為の閑道人、妄想を除かず真をも求めず、無明の実性則仏性、幻化(げんげ)の空身則法身、法身覚了すれば無一物‥‥」と、この事(じ)ありて初めて人法(にんぽう)なしと決する。ここにおいて、刹那に滅却す阿鼻の業と、天真仏なることを証するのである。五蘊の浮雲は空去来、生活の一切が、どこから来てどこへ去る。三毒も水泡と同じく,虚ながらの出没、これが実相じゃと言うておられるが、ただ古人のみのことではない。何人(なんぴと)もこの人である。誠に安楽な境涯である。法界大の自己である。他の教えとその質の異なるゆえんであり、真に救われるゆえんである。
  
 もしこの大事なければ、人類はこのいかんともすることの出来ぬ苦悩を如何にせん。
 これなければ、人類の苦悩は救われぬ。この無明を断ぜざれば、世界平和を唱うるも、言葉のみにしてその実なし。
 ゆえに曰く、自身に矛盾あり、動著ありて、自らの内部に混乱あり、闘争ありて、何の平和がある。
 
 自己一人の真の平和ありてこそ、人類の平和あり。
 一人の和平は人類の和平なり。一人の和平の実証なくして、人類の和平はありえないものである。
 今日といえども、現にこの大事あり。請う、自ら看取看取。
                                      
「夢想 第一集~第四集合本」

2019年7月5日金曜日

Persistent Non-Symbolic Experiences(PNSE、継続的非記号体験)とは、「悟り」「覚醒」のこと

インタビューした結果、PNSEには初期段階から、より高度な段階まで、いろいろなレベルがあることが分かった。ただこの論文の中では「段階」「レベル」という表現は使われておらず、「ロケーション」という表現になっている。初期段階よりも高度な段階のほうが優れているというな印象を読者に与えたくないからだという。悟っている人が偉くて、そうでない人がダメだ、というわけではないということだ。ただ日本語では「ロケーション」とするより「段階」としたほうが分かりやすいと思うので、この記事の中ではあえて「段階」と呼ぶことにした。事実、PNSEの最終段階になれば、感情がほとんどなくなるので、それが本当に幸せな状態なのかどうかは意見が分かれるところ。Martin博士も「最終段階の直前くらいが、人間として一番幸せな状態かもしれない」と語っている。

さて傾向としては、通常の意識からだんだんと変化し、最終段階では自我の意識がなくなり、雑念や感情、自己効力感が消える方向に進んでいくという。自己効力感とは、自分には自分の人生をコントロールする力があると感じることで、一般的には自己効力感が高いほど幸福感を味わうと言われている。ところがPNSEの最終段階になると、自己効力感さえが消えていくという。人生はただ目の前を流れていくだけで、それをどうこうしようという思いがなくなっていくからだそうだ。

それではPNSE(悟り、覚醒)とは、具体的にはどういう意識の状態なのだろうか。インタビューを重ねるにつれ、PNSEに到達した人たちは、自我の感覚、思考、感情、認知、記憶に関して、普通の意識状態の人と大きく異なることが分かってきたという。1つ1つ詳しく見ていこう。

▲拡張する自我、消滅する自我
PNSEに到達した人の最も共通した体験は、自我の感覚の変化だという。通常の意識の人が感じる「自分」とはまったく「異なる自分」を感じるのだという。「異なる自分」は、どの宗教を信じるか、もしくは信じないかによって異なってくる。例えば仏教を信じる人は「自分」という感覚が「広い空間いっぱいに拡大した」という表現を使うことが多い。一方でキリスト教徒は「神との一体化」「イエスとの一体化」「精霊との一体化」などという表現を使うという。いずれにせよ、「自分」が自分の身体だけに収まっているのではなく、より大きな存在であるとい感覚なんだそうだ。

この自我の認識の変化は70%の人には突然訪れ、30%の人には数日間から数ヶ月間かけて段階的に訪れたという。宗教を持たない人の多くは、この突然の自我の認識の変化に戸惑い、何かの精神病にかかったのではないかと勘違いするらしい。実際に多くの人が精神科医を訪れたが問題解決にはならなかったとしている。

PNSEの段階によって自我の感覚は異なるようで、初期の段階では自我は拡張し、あらゆるものに繋がっている感覚だそうだ。一方でPNSEの最終段階になると、自我という感覚は完全に消滅するという。その途中の段階では、自我は残っており、ときどきその自我に引き戻されるらしい。

50人の被験者のうち、9人がこういった自我の感覚の段階的変化を感じたという。うち7人は時間をかけた変化を感じ、2人はあっと言う間に自我が拡大し消滅していくのを感じたという。

このPNSEの中での段階の変化に伴い、世界観にも変化が生じる。キリスト教徒の場合、PNSEの初期の段階では「神、イエス、精霊」といったものが中心の世界観が正しいという信念が強まるが、最後の段階に近づけば別の信念に移行するのだそうだ。宗教を持たないスピリチュアル系の人たちは、最初の段階では「神」ではなく「すべてとつながったエネルギー」「意識」などという表現をベースにした信念を持つが、段階が進むにつれ別の信念に移行する。

別の信念とは、どういうものなのだろうか。論文では「自分の経験の真実に、より確信を持つようになる」と表現している。どういう意味なのかはよくわからないが、「神」や「仏」「意識」「大いなるもの」などといった外部のものではなく、自分自身がそうしたものと融合してしまい、「神」や「仏」「意識」「おおいなるもの」という認識がなくなる、というような感覚なのかもしれない。


▲減少し、消滅する思考
自我の認識の変化に加え、PNSEに入った多くの人が気づくのが、思考の量の変化だ。ほとんどの人が、思考が大幅に減少したと答えている。思考が起こる場合でも、思考は目の前を流れていって、それにとらわれることが少なくなったという。

この場合の「思考」とは、自分自身に関する雑念のことで、通常の人生を送る上で必要な思考による問題解決能力が減少したわけではない。PNSEの被験者と話していても、通常の人と同様に会話が成立するという。事実、PNSEの被験者に聞くと、雑念が減少したことで大事な思考に集中できるので、問題解決能力はかえって増強されたと答えている。

PNSEの最初の段階では、ときどき雑念に引き込まれることがある。もちろん、気づくとまた雑然のない状態にすぐに戻ることができるという。ところがPNSEの段階が進めば、雑念に引き込まれる頻度は徐々に減少し、最終段階に入ると雑念は一切起こらなくなるという。



▲減少するネガティブな感情
感情も思考と同様にPNSEに入ると減少し、PNSEの段階が進めば進むほど減少していくという。

PNSEの初期の段階の人は、ポジティブな感情からネガティブな感情までを感じることがあると答えている。ただ感情を認識しても、その感情を引きずることは少ないという。

またPNSEの段階が進むにつれて、ネガティブな感情は減少し、ポジティブな感情だけが残るようになるようだ。

さらにPNSEの最終段階では、一切の感情を感じなくなるという。ただその直前の段階では、非常に強い「思いやり」「喜び」「愛情」が混ざったような1つの感情になるという。Martin博士が「最終段階の直前が人間にとって一番幸せでは」と語るのは、この感情に常に包まれている状態だからだ。

多くの人はPNSEの初期の段階から徐々にこの「一番幸せな段階」までに進むが、ごく一部の人は直接この段階に着地し、その後すぐに感情のない段階まで移行したと答えている。

PNSEに入った人は、感情を引きずらなくなるが、心の平穏を大きく乱す外部要因に遭遇し続けることがある。

何人かはこの心の平穏を乱す外部要因を排除しようとする。例えば配偶者が心の平穏を乱すことに気づき、離婚した人が何人かいた。

一方で、平穏を乱す要因を排除せずに、心が乱れなくなるまで、そのままの生活を続けた人もいる。心が乱れなくなるまでどれくらいの期間がかかったかをたずねたところ、一番短かったのが2週間。一番長かったのが7年間だった。心が乱れなくなるまでに時間がかかった人は、幾つもの外部要因が複雑に絡み合ったケースの場合が多く、1つ1つの要因を順番に乗り越えていくのに時間がかかるようだ。

また心を乱す外部要因を持ち続ける人もいる。PNSEの最終段階に到達した人でも外部要因を排除せずに持ち続けている人がいるが、そうした人には心の乱れはなく、わずかに身体的に違和感を感じる程度だという。

被験者50人の中には夫婦がそろってPNSEに入っているカップルが4組いた。1組の夫婦は、心を乱す外部要因があることで、かえってPNSEの先の段階にまで進めた、と答えている。ただ何年たってもその中心となる外部要因を乗り越えることができず、結局離婚したようだ。

また外部要因に何年も悩まされた結果、PNSEの状態から普通の意識状態に戻ったケースが2件あった。普通の状態に戻っても2週間から4週間でPNSEに戻ったが、また同じ外部要因の中に入ればPNSEから押し戻されたと答えている。



▲外部刺激に対する反応の変化
認知も、思考や感情同様にPNSEに入ると変化する。そして思考、感情同様にPNSEの段階を進むにつれさらに変化していくようだ。

PNSEに入った人とそうでない人の認知のあり方で、大きくことなるのは2点。1つは「今」への集中、もう1つは、外部刺激に対する心の反応の仕方だ。

PNSEに入ると、雑念が減少していくので、過去を思い出したり、未来を思い悩んだりしなくなり、その結果、今、目の前にある事象に集中するようになる。

雑念がない分、感覚が鋭くなり、視覚だけでなく、聴覚や嗅覚、皮膚感覚など5感を総動員して、今の目の前の事象を深く味わおうとするようになるという。

PNSEの初期段階では、その後の段階に比べて、過去や未来の思考に引きずり込まれることが多いらしい。後ろの段階になると、目の前の体験にしっかりと根付くようになり、最終段階では、ほぼ完全に「今」に没入し、3次元のものが2次元に見え、世界が止まったように感じるらしい。

認知に関するもう一つの大きな変化は、外部刺激に対する心の反応の変化だ。

自動車を運転中に、別の車が目の前で急にレーン変更してきたとき、PNSEの初期段階の人は一瞬イラっとして脊髄反射してしまうが、すぐに通常の平穏な心に戻るという。PNSEに入る前までは、イラッとした状態が長引いていた、と答えている。被験者に自己分析をしてもらうと、自我の感覚が拡大したため、ちょっとしたことでバカにされたと傷つかなくなったからではないかと答えたという。

一方で、PNSEのより深い段階に達している人の外部刺激に対する反応は大きく異なる。穏やかな気候のときに大学のキャンパスでインタビューしているときのこと。何人かの女子学生が芝生の上で水着姿で日向ぼっこをしていた。被験者(男性)が水着姿の女子学生をちらっと見たので、Martin博士が、頭の中で何が起こっているのかを被験者にたずねた。そうすると被験者は、自分が女子学生の方向をときどき見ることは分かっているが、その後、心の中に何も変化がないと答えたという。自己分析してもらうと、女子学生を無意識に見るのは、生殖に関する深いレベルに組み込まれた反応ではないだろうかと答えたという。

PNSEの中間から後ろの段階の何人かの被験者は、こうした認知プロセスのレベルの1つ1つの反応を認識できると答えている。生殖に関する本能のような反応から、身体的、思考的、感情的な反応まで、認知のレベルを順に認識できて、自分の反応がどのレベルから来ているのかが分かるという。一方でPNSEの初期段階の被験者は、認知プロセスを細分化して認識できず、1つの反応として捉えているようだ。

またPNSEの段階が進めば進むほど、外部刺激に対する反応を自分でコントロールできるようになるという。そして最終段階になれば外部刺激に反応することがほとんどなくなるので、反応をコントロールする必要もなくなる。外部刺激にただ気づくという反応になるらしい。



▲減少する記憶
被験者全員が、過去の記憶はもはや重要ではなくなったと答えている。自分の過去の記憶に興味がなくなると同時に、ほかの人の過去のストーリーにも興味がなくなる。映画などの趣味も変わるという。

雑念が減少するに伴って、過去の出来事をふと思い出すことも少なくなるようだ。何人かは記憶障害になったのではないかと思うそうだが、実際に過去の出来事について質問すると、ほとんどの被験者は問題なく思い出せるようだ。

特にPNSEの最終段階では、短期、中期の記憶を思い出すのが困難になると語る被験者が多いという。



▲PNSEには誰でも入れる
さて悟った人の意識状態がどういうものなのかは分かった。Martin博士は次に、通常意識の人が何をすればPNSEに入ることができるのかを調べた。その結果、「一般的に思われているほどPNSEに入るのは難しくない。自分に合ったアクティビティさえ見つけることができれば、多くの人がPNSEに入れる」という結論になったという。「PNSEに入ることよりも、入ったあとで、新しい意識と自分の人生の折り合いをつけることの方が、よほど大変だ」と同博士は指摘する。

これは僕もそう思う。一般的には、臨死体験をするか、座禅や瞑想などの修行を長年繰り返さなければならない、と信じられている。でも僕がこれまで「この人はPNSEに入っているな」と思う人のほとんどは、臨死体験をしたわけでもなく、座禅の長年の実践者でもない。

ヨガやサーフィンの愛好者はもちろんのこと、水泳やランニングの愛好者の中にもPNSEの人がいる。また反対に、そうしたことを一切していない人でも、PNSEに入っている人もいる。

特に若い人の間には、欠乏の心ではなく、満たされた心で活動している人が増えてきているように思う。

どうせなら、満たされた心の人が増えてくれれば、世の中はより楽しくなるように思う。

Google社内で一番人気の課外プログラムはマインドフルネスで、そのプログラムを開発したChade Meng-Tan氏は、悟った人を100万人作りたい、と語っているという。またTransTech Conferenceの主催者たちは、テクノロジーを使えば2030年までに、心が満たされた人の数を10億人に増やせるはずだと語っている。

常に欠乏した意識から、常に幸福に満たされた意識へ。人類は今、大きな変化の扉の前に立っているのかもしれない。

https://aishinbun.com/clm/20181218/1888/?fbclid=IwAR0vjahe6bQf3sKhiXSSH6Dd32Rc7h-ZkyRIYqs_eNZYXO17jeZuNfqItbg

自灯明・法灯明

「自灯明・法灯明」つまり、「自己を島(洲)とし、法を島(洲)とする。」ことは、四念処すなわちヴィパサナ(マインドフルネス)を修習することにより起こるのです。

「ブッダ最後の旅」 大パリニッバーナ経(抄) 中村 元 訳(岩波文庫)
第2章 9.旅に病む ベールヴァ村にて  26
  
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
では、修行僧が自らをたよりとして、他人をたよりとせす、法を島とし、法をよりどころとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころととしないでいるということは、どうして起こるのであるか?

 アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 感受について感受を観察し、 熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 こころについて心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
  アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。

なお、この部分の記述は大乗の「涅槃経」では見当たらないようです。

2014年8月28日木曜日

瞑想のすすめ

哲学者で日本大学教授の永井均さんのヴィパッサナー瞑想のすすめです。

瞑想のすすめ
永井 均 (哲学者・日本大学教授)
日本経済新聞  2013年2月10日(日)朝刊「文化」欄

  半年ほど前から瞑想修行を始めた。座禅から入ったのだが、座禅は退屈である。座禅とは、手足を何もできないように組んで、何もしない(そしてできる限り何も考えない)修行のことなのだから、当然のことではあるのだが。そのうえ、毎日やってみても何の効果も実感できない。そんなことを言ったら、効果なんかを求めること自体が禅の本質に反する、と言われそうだ。そういう世俗的価値を脱することこそが禅の本質なのだ、と。
                      △ △ △
  今やっているのは、見かけは座禅とそっくりだが中身はまったく違うヴィパッサナー瞑想といわれるもの。ヴィパッサナーとは「明らかに見る」という意味のパーリ語で、原始仏教の経典に拠るものなのでこちらの方が仏陀の瞑想法に近いとみいわれる。わかりやすい典拠を一つ挙げれば、岩波文庫の『ブッダのことば』(中村元訳)の中で、仏陀は、学生アジタの「煩悩の流れをせき止めるものは何か」という問いに、それは「気をつけることである」と答えている。随分つまらない答えだなと思われるかもしれないが、中村訳で「気をつける」と訳されているのは「気づく」「自覚する」という意味のパーリ語の「サティ」で、実はこれこそがヴィパッサナー瞑想の核心なのである。
  やり方は簡単である。まずは座禅の格好で座り、呼吸に意識を集中する。座禅と違うところは、次々と浮かんでくる想念を単なる夾雑物と見なさないで、いちいち気づいて明らかに見ていくところである。呼吸に集中するのは、そうするための手段にすぎない。
  重要なことは、浮かんでくる想念と一体化して、その立場に立って世界を見てしまわずに、逆に、客観的視点に立って、その想念を一つの出来事として見ることである。感覚の場合なら、「鼻がかゆい」と捉えずに「そこにかゆみがある」と捉える。同僚の誰かの姿が思い浮かび、「あの野郎~しやがって、という思いが生じた」と見る。客観的視点に立てれば、それをたとえば「嫉妬」と本質洞察することもできる。嫉妬している視点に没入してしまえば「嫉妬している」という本質は決して見えないが、客観視できればその本質を見ることも可能となるからである。(だが、次の段階では、この本質洞察それ自体もまた一つの出来事として見ることができなければならない)
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  ちょっと哲学的用語を使わせてもらえば、心の状態には「志向性」と呼ばれる働きがあって、これが働くと思ったことは客観的世界に届いてしまう。世界の客観的事実として「あの野郎」が何か酷いことをしたことになってしまうわけである。すると、作られたその「事実」に基づいて二次的な感情も湧き起こり、さらに行動に移されもする。その観点からの世界の見え方が次々と自動的に膨らんでいってしまうわけである。
  志向性は言語の働きなのだが、ちょっと内観してみればすぐに分かるように、言語を持つわれわれは、黙っているときでも頭の中では言葉を喋り続け、想念を流し続けている。ヴィパッサナー瞑想の標的はまさにこれなのである。そうした想念の存在が気づかれ、客観的観点から明らかに見られると、想念の持つ志向性は奪われ、それが連鎖的に膨らんでいくことも、それに基づいた二次的な感情が起こって行動に移されることも、止められる。志向性が遮断されれば、心の状態は心の中で現に起こっている単なる出来事として、ただそれだけのものとなるからである。
  この世のあらゆる悩み苦しみは、われわれがつねに頭の中で流し続けている想念(の持つ志向性)が作り出しているものなので、それらが生まれる瞬間を捉えて、それを単なる出来事として見ることができれば、われわれはあらゆる苦悩から逃れることができることになる。過去に届く後悔や未来に届く心配も、瞬間的にその届かせる力を奪われてしまうことになる。想念が膨らんで力を持ってしまう前に気づくことが重要なので、気づきは早ければ早いほどよい。だから、ヴィパッサナー瞑想では退屈している暇はない。
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  そしてヴィパッサナー瞑想は、座禅と違って、座っているときだけでなく一日中いつでもできる。通勤電車の中でも、歩きながらでも、食事をしながらでも、もし終日これをを絶やさないことができたなら、あなたはもう仏陀(=目覚めた人)なのである! まあ、そこまでは行かなくとも、一日数十分づつ半年ほどやってみただけの私にさえ、明らかな効果が実感できるのだ。
  たとえば私は今朝、東京駅でちょっと急いでいたのでエスカレーターの右側を歩いて上がろうとしたところ、私の前の若い男が、右側に乗ったくせに妙にのろのろと歩く。私はむっと来て「こっち側に乗ったのならもっと速く歩けよ」と思った。その瞬間、「怒り」「焦る気持ち」…というサティが自動的に入って、その気持ちが対象化され一つの出来事となって、しゅわっと消えたのである。以前なら無自覚に没入してしまったであろう感情の生起に、瞬時に気づくことができたわけである。まあ、いつもこんなに上手くいくわけではないが、この程度の効果があることは確かである。
  座禅が煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に人を連れ戻すのに対して、ヴィパッサナー瞑想は煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界にこの世の生活を変える。それは間違いなく心の平安をもたらすだろうが、真の幸福をもたらすかといえば、それはまた別の、もっと大きな問題であるが……。


2014年7月16日水曜日

20年以上「うつ」と付き合った私が学んだ大切なこと

Lifehackerに掲載されていた記事です。

               http://www.lifehacker.jp/a/2014/07/140710depression.html


  うつは、話すのがツラい話題です。でも、それを生き抜くのは、もっとツラいこと。実は私も、20年以上前からうつと付き合っています。そんな中でも、あきらめずに何とかやり過ごす方法を学んできました。
本題に入る前に、まずは免責を。ここに書くのは、あくまでも私の個人的な体験です。私は医者ではないですし、知らない人を診断したり治療する資格もありません。自分の状況についてはよくわかってますし、一般的なうつについてもたくさん学びました。とはいえ、あなたの個人的な状況については、専門家によるカウンセリングを受けてください。ここに書くのは、私にとって役に立ったことにすぎません。
それから、もしフェンスの逆側に立って誰かを応援する立場であれば、こちらのガイドを参考にしてください。
あなたの自己認識は間違っていることが多い
うつの最大の問題は、真実を歪めてしまうこと。いつもは楽しいことが楽しく思えないばかりか、自分のいいところが見えなくなってしまいます。うつになると、ネガティブな思考が消えることなく、何度も何度も巡ってきます。そしてついに、最悪のシナリオを真実だと思い込んでしまうのです。
「僕はこの型にハマったまま、抜け出すことはできないんだ」
「私には存在価値がない」
「誰も自分のことなんて気にかけてくれない」
「俺は何をやってもダメなんだ」
「もう、続ける理由なんてない」

特に強力なのが、あきらめろという言葉。このような考えに対抗することは、非常に困難です。なぜなら、それが真実のように感じられるだけでなく、それが一見真実だと思えるような状況にいる場合すらあるからです。でも、忘れないでください。そのような認識は、現実とは異なるということを。
うつの話とはずれますが、うつとは無縁の成功者であっても、認識と現実の不一致は比較的よくあることです。過去に、詐欺師症候群を紹介したことがありました。それは、身の周りには優秀な人ばかりなのに、自分は自分を偽っているだけだという思い込みです。どんなに成功している人でも、このような状況に陥ることがあります。でも、それは、脳をだます心の声の1つに過ぎないのです。
問題は、このような矛盾に立ち向かうモチベーションを、うつが奪い去ってしまうこと。うつを抱えていない人なら、たとえ自分が自分を偽っていると感じても、それは自分の頭の中で築き上げたイメージに過ぎず、誰もが同じように感じることがあると考えることができます。でも、うつを抱えている人は、本質的にそのように考えることが難しいのです。私の個人的な経験では、状況が変わって逆の証拠を見つけても、依然として最悪な考えから逃れることはできませんでした。なぜなら、脳がそう考えていたから。どれだけ外部検証をもらっても、まったく意味を成しませんでした。
この厳しい事実を、心に留めておかなければなりません。うつは、「おまえは人と違う」と主張してきます。もっと言うなら、「お前はルールの例外だ」と。そのようにハイな状態のときは、自分に対する認識は必ずしも真実ではないことを思い出すことが非常に大切です。

自分の感覚は完全に有効である

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上記のような状況を考慮すると、うつの人にかける言葉としては、「あなたの感じていることは意味のないことだから、感情を無視しなさい」というのが自然な反応なのかもしれません。「あなたは本当の敗者ではないはず。だから、元気を出して! ほら、楽しそうな顔を見せてよ。だって、悲しくなるような事実は何もないんだからさ」
でも、それは真実ではありません。あなたの感情と事実とは、本質的に異なるのです。たとえあなたが、尊敬に値する特徴を持っていたり、将来を約束されていたり、今すばらしい人生を送っていても、それについて自分が快く思っているとは限りません。そこがポイントです。うつは、根拠のある悲しみが問題ではないのです。むしろ、どんな状況であっても不幸に感じてしまうのが、うつの正体なのです
自分のうつに対する感覚は有効です。でも、その感覚を正当化したり、守ったりする必要はありません。自分の行為が自分自身や他人を傷つけないのであれば、感じることは自由なのです。誰もが、自分の状況を完全に反映しているわけではない感覚を持っています。うつを患っているからと言って、何かを感じてはいけないなどという特別なカテゴリーに属するわけではありません。ただ、自分の感情に、別の方法で向き合うことが必要なだけです。ほかの人たちは無意識のうちに感情と現実を分けて考えていますが、うつのあなたは、少しだけ余計なステップと、いくらかの助けが必要です。

誰かの助けが必要

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うつは、孤立をもたらします。うつは、次々とあなたの人間関係をむしばんでいきます。「誰も自分を気にかけてくれない、誰もわかってくれない、自分は誰も必要としていない」という心の声が、どんどん人間関係を壊していくのです。でも本当は、あなたには誰かが必要です。うつになると、自分の状況を正確に判断できなくなるので、他者からのインプットの重要性が増します。
うつにおいてもっとも怖いのが、それがあなたの頭の中にあるということ。風邪の場合、自分のどこが悪いのか、指し示すことができるでしょう。でも、うつの場合、自分の感情のどの部分が真実に基づくもので、どの部分が過剰反応なのかをいつでも把握できるわけではありません。これら2つを区別する方法を習得するには、他人と話すことが非常に重要な役割を果たすのです。
他人に自分のうつについて話すのは、あまり心地いいものではありません。信頼できる友達がいれば、あなたの言うことに耳を傾けて理解しようとしてくれるかもしれません。でも、そんな友達がいなくても、助けを求める手段はたくさんあります。そうすることは、何ら悪いことではないのだと知っておいてください。

助けを求めたっていい


「うつを患う人は不完全である」という考える人が多いような気がします。巷には、精神疾患は人を壊すという報道や統計があふれています(例えば、「うつが自殺の原因」「自閉症が大量殺戮の原因」など)。でも、現実はそれほど単純ではありません。うつだからといって、あなたは壊れているわけではないのです。
うつとは、心理的不適応です。うつのとき、自分の感情への反応は、他者と同じように調整されているわけではありません。ネガティブに考えるのが習慣になり、どう反応していいかわからなくかったり、ポジティブな感情の持ち方がわからなくなってしまします。でも、わからないだけで、できないわけではありません。幸せの源を失ってしまったわけではないのです。ただ、調整がうまくいっていないだけ。
うつの助けを求めることは、風邪や捻挫、もしくは健診で病院に行くのと何ら代わりません。誰もが身体の健康をチェックしてもらう必要があるように、精神面の健康も、専門家に診てもらうことが自然なのです。恥ずかしいことはまったくありませんし、誰にもあなたを悪く言う資格はありません。専門家に相談すれば、何かの手助けにはなるでしょう。

ずっと続くわけではない


うつに「治療」はありません。風邪や水ぼうそう、ガンなどとは異なり、身体の一部を指さして、「これがなくなればよくなるでしょう!」と言えるものが存在しないのです。うつは、心の中にあります。うつは、ある意味で人格の一部でもあります。うつの症状が収まっても、あなたの感じ方が、あなたを形作っているのです。だから、それを完全に排除する必要はありません。
でも、感じ方を変えることはできるはずです。神経可塑性については過去にも触れたことがあります。基本的に、脳は変わることができるという考え方です。自分の行動、習慣、周囲の環境が、自分の考えに影響を与えます。つい20世紀の中ごろまでの神経学者らは、小児期を過ぎると脳は変わらないと信じていました。その考えは、もはや事実としては受け入れられていません
神経可塑性とは、現在の習慣や脳のパターンが、一生続くわけではないことを意味します。変わることは容易ではありません。一生をかけて調節していく必要があるかもしれません。うまく適応できるようになっても、心の陰には、ゴーストが潜んだままかもしれません。でも、人はそれぞれ違いますし、誰もに共通するような完璧な解決策など存在しないのです。
裏を返せば、友達に「希望がある」と言われたら、それはウソではないということです。何年間も悪いことが続いていても、あきらめない限りチャンスはある。うまく行くチャンスが、きっとあるはずなのです。うつと戦っているあなたにとっては、ほんのわずかな希望の光が、生と死を分けることになるのかもしれません。
Eric Ravenscraft(原文/訳:堀込泰三)
Photos by Hyperbole and a Halfaubrey.