2019年7月31日水曜日

識中に自己を忘ず  井上義衍老師語録

全てのものは、それぞれにおいて、そのもので解決済みのものである。その外にはない。
この故に万物は存在しており、さらに疑うところはない。また、これほど確かな事実はない。今を今の外に求めようはない。求めざれども今なり。
 
然るに、人はこれに対して色々に疑いを起こし、この疑問を解明せんとし、あらゆる手段を尽くしてこの問題に取り組んでいる。然るに、過去無量劫来から今日に至るまで、何人も満足なる解決をした人がない。
いかなる問題をどのように論じてみても、いかように立派な説を立て、結論を出してみても、人の立てた結論によっては、決定的な無条件での満足は得られない。それは、その思うことが妨げているからである。
 
人類の全てが、この無条件で満足の出来る道を求めて止まない。然るに、この目的が達し得られない。人はこの矛盾に永久に悩まされて行く。これが人類最大の悩みである。人類発生以来の悩みである。
文化の進展につれて、この問題は益々大きな問題となるものであるが、これは人間が人間として、人間的な態度でしては、決して解決の出来る問題ではない。これは人間の全てが既に経験をして今日に及んでいるはずである。それだからといって、この問題を放置しておくことは益々出来ない。そこで、人はこの矛盾に苦しむのである。これが文化人の最大の苦しみである。
哲学者も芸術家も宗教家も、これが最終的課題となっている一大問題である。
  
仏教では、この疑問の起こる元を根本無明(むみょう)の煩悩という。この無明の煩悩が滅しない限り、人間の苦悩を完全に救うことは出来ない。たとえ百人千人が集まり、仏教学的に研究に研究を重ねて各々同一結論に達し、これらの人によって決定付けられ、学問として理論的に決定されて、各自これでよいと決めてみても、彼ら自身が、真実にこれで良いのかと自問自答する時、真面目な正直な考えを持つ学者であればあるほど、益々疑問が起き、自分自ら迷うのが落ちではあるまいか。 

かく考えてみればみるほど、人間は迷いに迷いを重ねて浮かぶ瀬なき哀れなる者となる。これが人を苦しめ悩ますところの根本無明の煩悩である。

かつて、釈尊が出世された当時も同じことであったことは、釈尊が苦悩されたことで分かる。この時、釈尊はこの人間苦の元たる無明の一大問題を問題として、これの解決のため王城を出られた。これが釈尊の出家である。
当時の出家修道者の有名人であるアララカラン、ウッダカ等に師事して、彼らの言う最後の空無遍所(くうむへんじょ)、非想非々想定(ひそうひひそうじょう)の境涯に達せられた。しかし、これは人間的な生活の全てを尽くしての訓練修行であった。
このことは、釈尊の疑問というよりは、人類全ての最大疑問たる、「真実とはいかなるものか」という、人間手放しでの満足に対しては、一文の値(あたい)にも当たらないので、釈尊も失望された。それは、無明が残されているからである。
 
その結果、釈尊はさらに自分自身、自らの真相を省みられた。ということは、今日までの問題は、およそ人間特有の無明のもとである認識が、認識としての問題の中を一歩も出られないこと――いわゆる、認識自体が認識自体の微妙かつ自在なる活動のために惑わされて、これから一歩も出ることなく、ただいたずらに認識上にあって、認識を問題にしていたということに気付かれた。
これは、人類の一大事件である。もしこの事(じ)なければ、釈尊の出世なし、これなければ世は暗黒ならん。すなわち、地球上にあって地球の全体を見んとすると同様、全く不可能であることは何人(なんぴと)も知るところである。従来の人は、識が識の混迷による誤りを誤りと知らず、今日の人もまたこの誤りを知らず、これに惑わされている。この発見こそ、釈尊の偉大なる前人未到の田地であり、人類苦の元を発見するの鍵であった。
 
釈尊はこれに目覚められた。この一大問題が過去の人々から取り漏らされていた重大な問題であったことに気付かれた。ここにおいて釈尊は、従来一般に人間修行最大の道と思われた苦行の道を捨て、健康の回復を図り、ついに尼蓮禅河畔(にれんぜんがはん)において、只管(しかん)に参禅されたのである。(只管とは、内に思うことなく、外諸縁を捨てて一切為すことなし。これ意識の中に自己を忘ずるの道である)
その坐禅は、弟子のラゴラに教えられたところによっても明らかであるが、各自が実際に徹してみれば自ずから明らかである。
 
それは、意識の中に自己を忘ずることであって、意識をなくすることではない。意識の中に自己を忘ぜよと教えられている。これ、大死一番大活現成(だいしいちばんだいかつげんじょう)の道である。すなわち、意識自体が純意識自体であるときに、自体が自体を知ることは出来ない。主体を主体と知ることも出来ぬところに、意識の主体すらも消滅するのである。眼(まなこ)眼を見る能わざるが如し。
 
 この確実かつ純粋なる道に徹するとき、無明は断絶する。それは、識自体が識以前の純然たる法性体(ほっしょうたい)の事実に直接に証せられて、認識の及び難きものなることをまさしく得たとき、得る要も捨つる要もなく、自信の要も全くなきことを得るからである。この時初めて、「今」の事実たる一大法界(ほっかい)が無条件で証せられ、この生活自体が法身(ほっしん)であることを自得するのである。この時、疑いようも信じようもない、その必要も全くなく、その欲求すらも起こらないものである。求心(ぐしん)の全く止む時である。
釈尊の明星一見大悟の事実がこれである。無明の絶滅である。これなくして仏教の真意、すなわち人及び物の真意を知ることは出来ないものである。 

 道元禅師が如浄禅師の会下(えか)におられた時、道元禅師の隣単で眠っている僧を浄祖が打って、「参禅はすべからく身心脱落なるべし」と、ここにおいてこの事(じ)を実証された。これによりて、道元禅師は意識以前の真相たる実相無相に徹せられたのである。この大事において、従来問題にされていた、「本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」たる法性の実相自体を自覚され、ここにおいて、「一生参学の大事全く畢(おわ)りぬ。一毫も仏法なし」と禅師は言われた。すなわち、無明の尽きたる脱落の実証である。
 
 今はこの人なきが如し。この一大事なければ、いかに仏の教えを説いてみても、自らが不安であるから信ずる力を借りなければならぬ。今は仏祖の教えに対する正直な人がいないのではないか。人類の安泰のためにも、この人を望むものである。このことは、誰でもやれば必ず出来るものである。
 今の多くの教えなるものは、みな意識上における意識の問題を、意識内において解決せんとしているが、それは不可能なことである。このことは、意識自体が自らの細工に過ぎないことを識自らが知っているからである。

  この一大事を得て、人類の苦悩の起こる元を明らかにせんことを要す。これが今日の最大急務である。しかもその道は開かれている。しかしながら、今の人はその道あることを知りながら、今人には古人のごとき道が実現するものではない、時代が違うと思っているのではないか。もし然りとすれば、大変な問題である。
 
 なんとなれば、道元禅師の言われた「人々の分上に豊かにそなわれりといえども、いまだ修せざるには現われず、証せざるには得ることなし」の言のごとく、これは虚言ではない。「利人鈍者を選ぶことなかれ」ともある。すなわち、今の全ての人々も、実は実相無相そのものの生活者自体であるからである。

 白隠禅師の言葉に、「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて‥‥」と、水の中にあって水を求むるこの哀れさをいかんせん。この事(じ)は、言うことは誰もが言うが、その事実を証明できる者が今日はいないので、これを求むる者に対して、手の下しようがなくて困っているのが実状ではないか‥‥。

 多くは、人間が人間として正しき道を踏み、自他共に人格者として許し得ても、それはそれだけの人である。立派な人ではあるが、ただし無明の根底を断じ得た人とは、全くその質を異にするものである。ただし、非人格者たれと勧めるのではない。無論道を学び、無明を断ぜんとする人において、非人格者たる筈はないと言えることは当然である。
 
 見よ、六祖下の永嘉禅師のごとき、『証道歌』に、「君見ずや絶学無為の閑道人、妄想を除かず真をも求めず、無明の実性則仏性、幻化(げんげ)の空身則法身、法身覚了すれば無一物‥‥」と、この事(じ)ありて初めて人法(にんぽう)なしと決する。ここにおいて、刹那に滅却す阿鼻の業と、天真仏なることを証するのである。五蘊の浮雲は空去来、生活の一切が、どこから来てどこへ去る。三毒も水泡と同じく,虚ながらの出没、これが実相じゃと言うておられるが、ただ古人のみのことではない。何人(なんぴと)もこの人である。誠に安楽な境涯である。法界大の自己である。他の教えとその質の異なるゆえんであり、真に救われるゆえんである。
  
 もしこの大事なければ、人類はこのいかんともすることの出来ぬ苦悩を如何にせん。
 これなければ、人類の苦悩は救われぬ。この無明を断ぜざれば、世界平和を唱うるも、言葉のみにしてその実なし。
 ゆえに曰く、自身に矛盾あり、動著ありて、自らの内部に混乱あり、闘争ありて、何の平和がある。
 
 自己一人の真の平和ありてこそ、人類の平和あり。
 一人の和平は人類の和平なり。一人の和平の実証なくして、人類の和平はありえないものである。
 今日といえども、現にこの大事あり。請う、自ら看取看取。
                                      
「夢想 第一集~第四集合本」

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