2014年8月28日木曜日

瞑想のすすめ

哲学者で日本大学教授の永井均さんのヴィパッサナー瞑想のすすめです。

瞑想のすすめ
永井 均 (哲学者・日本大学教授)
日本経済新聞  2013年2月10日(日)朝刊「文化」欄

  半年ほど前から瞑想修行を始めた。座禅から入ったのだが、座禅は退屈である。座禅とは、手足を何もできないように組んで、何もしない(そしてできる限り何も考えない)修行のことなのだから、当然のことではあるのだが。そのうえ、毎日やってみても何の効果も実感できない。そんなことを言ったら、効果なんかを求めること自体が禅の本質に反する、と言われそうだ。そういう世俗的価値を脱することこそが禅の本質なのだ、と。
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  今やっているのは、見かけは座禅とそっくりだが中身はまったく違うヴィパッサナー瞑想といわれるもの。ヴィパッサナーとは「明らかに見る」という意味のパーリ語で、原始仏教の経典に拠るものなのでこちらの方が仏陀の瞑想法に近いとみいわれる。わかりやすい典拠を一つ挙げれば、岩波文庫の『ブッダのことば』(中村元訳)の中で、仏陀は、学生アジタの「煩悩の流れをせき止めるものは何か」という問いに、それは「気をつけることである」と答えている。随分つまらない答えだなと思われるかもしれないが、中村訳で「気をつける」と訳されているのは「気づく」「自覚する」という意味のパーリ語の「サティ」で、実はこれこそがヴィパッサナー瞑想の核心なのである。
  やり方は簡単である。まずは座禅の格好で座り、呼吸に意識を集中する。座禅と違うところは、次々と浮かんでくる想念を単なる夾雑物と見なさないで、いちいち気づいて明らかに見ていくところである。呼吸に集中するのは、そうするための手段にすぎない。
  重要なことは、浮かんでくる想念と一体化して、その立場に立って世界を見てしまわずに、逆に、客観的視点に立って、その想念を一つの出来事として見ることである。感覚の場合なら、「鼻がかゆい」と捉えずに「そこにかゆみがある」と捉える。同僚の誰かの姿が思い浮かび、「あの野郎~しやがって、という思いが生じた」と見る。客観的視点に立てれば、それをたとえば「嫉妬」と本質洞察することもできる。嫉妬している視点に没入してしまえば「嫉妬している」という本質は決して見えないが、客観視できればその本質を見ることも可能となるからである。(だが、次の段階では、この本質洞察それ自体もまた一つの出来事として見ることができなければならない)
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  ちょっと哲学的用語を使わせてもらえば、心の状態には「志向性」と呼ばれる働きがあって、これが働くと思ったことは客観的世界に届いてしまう。世界の客観的事実として「あの野郎」が何か酷いことをしたことになってしまうわけである。すると、作られたその「事実」に基づいて二次的な感情も湧き起こり、さらに行動に移されもする。その観点からの世界の見え方が次々と自動的に膨らんでいってしまうわけである。
  志向性は言語の働きなのだが、ちょっと内観してみればすぐに分かるように、言語を持つわれわれは、黙っているときでも頭の中では言葉を喋り続け、想念を流し続けている。ヴィパッサナー瞑想の標的はまさにこれなのである。そうした想念の存在が気づかれ、客観的観点から明らかに見られると、想念の持つ志向性は奪われ、それが連鎖的に膨らんでいくことも、それに基づいた二次的な感情が起こって行動に移されることも、止められる。志向性が遮断されれば、心の状態は心の中で現に起こっている単なる出来事として、ただそれだけのものとなるからである。
  この世のあらゆる悩み苦しみは、われわれがつねに頭の中で流し続けている想念(の持つ志向性)が作り出しているものなので、それらが生まれる瞬間を捉えて、それを単なる出来事として見ることができれば、われわれはあらゆる苦悩から逃れることができることになる。過去に届く後悔や未来に届く心配も、瞬間的にその届かせる力を奪われてしまうことになる。想念が膨らんで力を持ってしまう前に気づくことが重要なので、気づきは早ければ早いほどよい。だから、ヴィパッサナー瞑想では退屈している暇はない。
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  そしてヴィパッサナー瞑想は、座禅と違って、座っているときだけでなく一日中いつでもできる。通勤電車の中でも、歩きながらでも、食事をしながらでも、もし終日これをを絶やさないことができたなら、あなたはもう仏陀(=目覚めた人)なのである! まあ、そこまでは行かなくとも、一日数十分づつ半年ほどやってみただけの私にさえ、明らかな効果が実感できるのだ。
  たとえば私は今朝、東京駅でちょっと急いでいたのでエスカレーターの右側を歩いて上がろうとしたところ、私の前の若い男が、右側に乗ったくせに妙にのろのろと歩く。私はむっと来て「こっち側に乗ったのならもっと速く歩けよ」と思った。その瞬間、「怒り」「焦る気持ち」…というサティが自動的に入って、その気持ちが対象化され一つの出来事となって、しゅわっと消えたのである。以前なら無自覚に没入してしまったであろう感情の生起に、瞬時に気づくことができたわけである。まあ、いつもこんなに上手くいくわけではないが、この程度の効果があることは確かである。
  座禅が煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に人を連れ戻すのに対して、ヴィパッサナー瞑想は煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界にこの世の生活を変える。それは間違いなく心の平安をもたらすだろうが、真の幸福をもたらすかといえば、それはまた別の、もっと大きな問題であるが……。


2014年7月16日水曜日

20年以上「うつ」と付き合った私が学んだ大切なこと

Lifehackerに掲載されていた記事です。

               http://www.lifehacker.jp/a/2014/07/140710depression.html


  うつは、話すのがツラい話題です。でも、それを生き抜くのは、もっとツラいこと。実は私も、20年以上前からうつと付き合っています。そんな中でも、あきらめずに何とかやり過ごす方法を学んできました。
本題に入る前に、まずは免責を。ここに書くのは、あくまでも私の個人的な体験です。私は医者ではないですし、知らない人を診断したり治療する資格もありません。自分の状況についてはよくわかってますし、一般的なうつについてもたくさん学びました。とはいえ、あなたの個人的な状況については、専門家によるカウンセリングを受けてください。ここに書くのは、私にとって役に立ったことにすぎません。
それから、もしフェンスの逆側に立って誰かを応援する立場であれば、こちらのガイドを参考にしてください。
あなたの自己認識は間違っていることが多い
うつの最大の問題は、真実を歪めてしまうこと。いつもは楽しいことが楽しく思えないばかりか、自分のいいところが見えなくなってしまいます。うつになると、ネガティブな思考が消えることなく、何度も何度も巡ってきます。そしてついに、最悪のシナリオを真実だと思い込んでしまうのです。
「僕はこの型にハマったまま、抜け出すことはできないんだ」
「私には存在価値がない」
「誰も自分のことなんて気にかけてくれない」
「俺は何をやってもダメなんだ」
「もう、続ける理由なんてない」

特に強力なのが、あきらめろという言葉。このような考えに対抗することは、非常に困難です。なぜなら、それが真実のように感じられるだけでなく、それが一見真実だと思えるような状況にいる場合すらあるからです。でも、忘れないでください。そのような認識は、現実とは異なるということを。
うつの話とはずれますが、うつとは無縁の成功者であっても、認識と現実の不一致は比較的よくあることです。過去に、詐欺師症候群を紹介したことがありました。それは、身の周りには優秀な人ばかりなのに、自分は自分を偽っているだけだという思い込みです。どんなに成功している人でも、このような状況に陥ることがあります。でも、それは、脳をだます心の声の1つに過ぎないのです。
問題は、このような矛盾に立ち向かうモチベーションを、うつが奪い去ってしまうこと。うつを抱えていない人なら、たとえ自分が自分を偽っていると感じても、それは自分の頭の中で築き上げたイメージに過ぎず、誰もが同じように感じることがあると考えることができます。でも、うつを抱えている人は、本質的にそのように考えることが難しいのです。私の個人的な経験では、状況が変わって逆の証拠を見つけても、依然として最悪な考えから逃れることはできませんでした。なぜなら、脳がそう考えていたから。どれだけ外部検証をもらっても、まったく意味を成しませんでした。
この厳しい事実を、心に留めておかなければなりません。うつは、「おまえは人と違う」と主張してきます。もっと言うなら、「お前はルールの例外だ」と。そのようにハイな状態のときは、自分に対する認識は必ずしも真実ではないことを思い出すことが非常に大切です。

自分の感覚は完全に有効である

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上記のような状況を考慮すると、うつの人にかける言葉としては、「あなたの感じていることは意味のないことだから、感情を無視しなさい」というのが自然な反応なのかもしれません。「あなたは本当の敗者ではないはず。だから、元気を出して! ほら、楽しそうな顔を見せてよ。だって、悲しくなるような事実は何もないんだからさ」
でも、それは真実ではありません。あなたの感情と事実とは、本質的に異なるのです。たとえあなたが、尊敬に値する特徴を持っていたり、将来を約束されていたり、今すばらしい人生を送っていても、それについて自分が快く思っているとは限りません。そこがポイントです。うつは、根拠のある悲しみが問題ではないのです。むしろ、どんな状況であっても不幸に感じてしまうのが、うつの正体なのです
自分のうつに対する感覚は有効です。でも、その感覚を正当化したり、守ったりする必要はありません。自分の行為が自分自身や他人を傷つけないのであれば、感じることは自由なのです。誰もが、自分の状況を完全に反映しているわけではない感覚を持っています。うつを患っているからと言って、何かを感じてはいけないなどという特別なカテゴリーに属するわけではありません。ただ、自分の感情に、別の方法で向き合うことが必要なだけです。ほかの人たちは無意識のうちに感情と現実を分けて考えていますが、うつのあなたは、少しだけ余計なステップと、いくらかの助けが必要です。

誰かの助けが必要

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うつは、孤立をもたらします。うつは、次々とあなたの人間関係をむしばんでいきます。「誰も自分を気にかけてくれない、誰もわかってくれない、自分は誰も必要としていない」という心の声が、どんどん人間関係を壊していくのです。でも本当は、あなたには誰かが必要です。うつになると、自分の状況を正確に判断できなくなるので、他者からのインプットの重要性が増します。
うつにおいてもっとも怖いのが、それがあなたの頭の中にあるということ。風邪の場合、自分のどこが悪いのか、指し示すことができるでしょう。でも、うつの場合、自分の感情のどの部分が真実に基づくもので、どの部分が過剰反応なのかをいつでも把握できるわけではありません。これら2つを区別する方法を習得するには、他人と話すことが非常に重要な役割を果たすのです。
他人に自分のうつについて話すのは、あまり心地いいものではありません。信頼できる友達がいれば、あなたの言うことに耳を傾けて理解しようとしてくれるかもしれません。でも、そんな友達がいなくても、助けを求める手段はたくさんあります。そうすることは、何ら悪いことではないのだと知っておいてください。

助けを求めたっていい


「うつを患う人は不完全である」という考える人が多いような気がします。巷には、精神疾患は人を壊すという報道や統計があふれています(例えば、「うつが自殺の原因」「自閉症が大量殺戮の原因」など)。でも、現実はそれほど単純ではありません。うつだからといって、あなたは壊れているわけではないのです。
うつとは、心理的不適応です。うつのとき、自分の感情への反応は、他者と同じように調整されているわけではありません。ネガティブに考えるのが習慣になり、どう反応していいかわからなくかったり、ポジティブな感情の持ち方がわからなくなってしまします。でも、わからないだけで、できないわけではありません。幸せの源を失ってしまったわけではないのです。ただ、調整がうまくいっていないだけ。
うつの助けを求めることは、風邪や捻挫、もしくは健診で病院に行くのと何ら代わりません。誰もが身体の健康をチェックしてもらう必要があるように、精神面の健康も、専門家に診てもらうことが自然なのです。恥ずかしいことはまったくありませんし、誰にもあなたを悪く言う資格はありません。専門家に相談すれば、何かの手助けにはなるでしょう。

ずっと続くわけではない


うつに「治療」はありません。風邪や水ぼうそう、ガンなどとは異なり、身体の一部を指さして、「これがなくなればよくなるでしょう!」と言えるものが存在しないのです。うつは、心の中にあります。うつは、ある意味で人格の一部でもあります。うつの症状が収まっても、あなたの感じ方が、あなたを形作っているのです。だから、それを完全に排除する必要はありません。
でも、感じ方を変えることはできるはずです。神経可塑性については過去にも触れたことがあります。基本的に、脳は変わることができるという考え方です。自分の行動、習慣、周囲の環境が、自分の考えに影響を与えます。つい20世紀の中ごろまでの神経学者らは、小児期を過ぎると脳は変わらないと信じていました。その考えは、もはや事実としては受け入れられていません
神経可塑性とは、現在の習慣や脳のパターンが、一生続くわけではないことを意味します。変わることは容易ではありません。一生をかけて調節していく必要があるかもしれません。うまく適応できるようになっても、心の陰には、ゴーストが潜んだままかもしれません。でも、人はそれぞれ違いますし、誰もに共通するような完璧な解決策など存在しないのです。
裏を返せば、友達に「希望がある」と言われたら、それはウソではないということです。何年間も悪いことが続いていても、あきらめない限りチャンスはある。うまく行くチャンスが、きっとあるはずなのです。うつと戦っているあなたにとっては、ほんのわずかな希望の光が、生と死を分けることになるのかもしれません。
Eric Ravenscraft(原文/訳:堀込泰三)
Photos by Hyperbole and a Halfaubrey.

2014年2月28日金曜日

NLPのディソシエイト・アソシエイト

NLP(Neuro-Linguistic-Programming)は日本語で「神経言語プログラミング」と略されますが、 1970年代に米国で始められた、言語学と心理学を組合わせた実践手法です。NLPはその効果の高さと即効性で評判となり、またたく間に広まりました。

NLPでは、人間は、神経(五感:視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚)を通して認識した経験が、言語によって意味を与られてプログラム化され、それにしたがって反応をすると考えます。このプログラムの性質が人間の幸・不幸を決定するのです。

NLPでは、自分の体験をまるで他人事のように眺めることを「ディソシエイト」、身体全体で深く体験することを「アソシエイト」と呼び、この2つの能力の高さによって、NLPのスキルの威力の高さが決定されます。
マインドフルネス瞑想の参考になるものと思います。

実習:ディソシエイト・アソシエイト
1 まず、目の前に「映画のスクリーン」をイメージします。
2 かつて「とてもうれしかった時の体験のシーン」を1つ特定します。
3 そのシーンをビデオカメラで誰かに録画してもらったと仮定します(この映像には自分自身が映っています。)
4 そして、その映像を目の前の「映画のスクリーン」に映し出し、まるで他人事のように客観的に見ます。

5 しばらく体験したら、次に、そのスクリーンの中で喜んでいる自分に意識を一致させます。
(自分の意識を、映画のスクリーンの中の自分に移動させ、そのスクリーンの中で喜んでいる自分自身になり切り、その時感じていた感覚や感情を実感します。)
6 しばらく体験したら意識を現在に戻します。

                           (参考: 「NLPの実践手法がわかる本」 山崎啓支)

2014年2月10日月曜日

ミャンマー旅行

2014年2月2日から2月8日までミャンマーを旅行してきました。

〇 シュエダゴン・パヤー
  シュエダゴン・パヤーの高さは99.4m、基底部の周囲は433mで、付随する小仏塔の数は64を数えます。ミャンマー各地からの参拝者が絶えません。
金色に輝くパヤーの最頂部にある聖傘は、76カラットのダイアモンドを中心に総計5,451個のダイアモンドと、2,317個に及ぶルビー、サファイア、翡翠などの宝石で装飾され、輝いている金薄板は60tに及びます。
シュエダゴン・パヤーの歴史は、言い伝えによると、インドを商用で旅していたモン族の兄弟が、ゴーダマ仏陀に面謁し食べ物を供養して8本の聖髪を賜り、国に帰った兄弟が、モン族の王カーカウンナティターに聖髪を差し上げ、王がシングッタヤの丘に8本の聖髪を安置したことに始まります。
その後、釈尊入滅236年第3回仏典結集後、アショーカ王の命によりインドから仏教布教のために長老が訪れ、布教僧たちがモン族の王にパヤーを再建、修復するように説き、以来、モン族の王がシュエダゴン・パヤーを修復するようになりました。
15世紀中期、女王シンソーブは現状とほぼ等しいものに改修し、自分の身体と同じ重量(40kg)の純金を寄進して、薄板に加工しパヤー全体を金色で装飾しました。北入口の東側にあるナウンドウジー・パヤーは、伝説の8本の聖髪が仏塔に収められる前に、最初に安置された場所と言われています。

 

















〇 バガン
   バガンはマンダレーから南西に193kmの所にあり、エーヤワディ川の東岸、42平方kmに及ぶ荒涼とした大地に、2,300を超えるパヤーや僧院などが点在しています。それらの一部は現在も、往時さながらの様子を見せています。
年間の平均降雨量が640mmに過ぎない赤茶けた大地にある遺跡の数には圧倒させられます。バガンは、カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥ―ルと並んで、世界の三大仏教遺跡の一つに数えられています。
パガンを支配した歴代の王の中では、第4番王朝のアノーヤター王が最も有名で、強力な王であった。アノーヤター王(在位10441077)に始まるバガン朝は、1044年から元のフブライ・ハンによって1287年に滅ぼされるまで、約230年間に亘って11代続きました。





 

 

 

 

〇 マハーシ瞑想センター
  1949年にマハーシ・セヤドーが設立して以来、多くの修行者達が瞑想したセンターです。日本人も多く修行に行っています。





2014年1月25日土曜日

アジャシャンティ「基本実践」

つづきです。
ブログ「Down The Rabbit Hole」http://rabbithole0.blogspot.jp/2013/08/blog-post_10.htmlより


基本実践1】すべてをあるがままに
「スピリチュアルの教えをどのように活用すればいいの?」「目覚めのために 実際どうすればいいの?」
このような疑問に対する答えはスピリチュアルの教えの中で何より重要なところなので、今回は最も基本的な実践方法を3つお話ししたいと思います。

1つ目の実践方法は静かにじっとしていること
これはとてもシンプルだけれど、非常に深く、自分で実践することが大変重要なものなんですよ。
静かにじっとしていることとはどういう意味でしょうか?
昔から長い間ずっと言われ続けている、非常にシンプルな教えですね。
これをどんな意味に受け取るかは人によってさまざまですが、私の場合は「すべてを あるがままにしている」ということを具体的な方法として教えています。

「静かにじっとしていること」この教えを実践しようとすると多くの人は、たとえば瞑想をする場合、思考を落ち着けようとしたり、静けさや平穏が感じられる場を探したり、何らかの修業のように取り組むでしょう。
自分の内面をコントロールしようとする感じですよね。私はそんなやり方を「操作」と呼んでいます。
過激な言い方に聞こえるかもしれませんが、まさに「操作」なのです。
「静かにじっとしていること」この教えを実践するためには、真の静けさを見つけなくてはいけません。
真の静けさは意図的に作り出せるものではないのですよ。どのようなコントロールや操作をしても決して見つけられないのです。
真の静けさは私たちの自然な状態なのですから、作り出す必要などないのですよ。
すでに ここに在るから気付いていないだけなのです。
私たちの本質がすでに完全な静けさで完全な平穏なのですが、思考に囚われていたらそれに気付けないでしょう。
エゴを自分と混同していると静けさは作り出さなければならないものだと思い込んでしまうのです。
前回の私の教えの基本原理についてのビデオでエゴは頭の中で創られた単なる思考パターンだとお話ししましたよね。
エゴとは私たちの中で起こっている現象であり私たちはエゴではないのだということが分かり始めるとまっさらな空間が現れます。
エゴとは基本的に繰り返しの思考パターンであり、そういう意味では私たちの中の雑音なんですね。
静けさの中に鳴り響いている雑音なのです。そして静けさは私たちの本質が持つ特性です。
私たちの本質であるスピリットは言葉で描写できず色も形もないのですがとてもイキイキとした存在です。
私も あなたも 誰でもみんな本質はスピリットなんですよ。そしてスピリットは、すでに、いつでも静かにじっとしているのです。
すべてをあるがままにしている」というのはスピリットの特性のひとつ、スピリットが やっていることのひとつです。
とは言っても、それは実は「行為」と呼べるものではありません。すべてをあるがままにしているためにあなたは何も「する」必要がないのです。それどころか、「行為」は、やめなくてはいけません。絶え間なくいつもいつも、何かを「しよう」「しよう」とする衝動を手放すのです。あらゆる「行為」は「すべてをあるがままにしている」ことに反することなのですから。
「すべてをあるがままにしている」ことができていない限り、エゴ意識から目覚めることがとても難しくなるのですよ。
ですから、「すべてをあるがままにしている」という、ごく基本的な教えは非常に重要なのです。
なかなか実践できない人が多いでしょう。すべてをありのままにしていることをエゴは恐れますからね。
エゴはすべてをあるがままにしていたら「大変なことが起こってしまう」あるいは「一切何も起こらなくなってしまう」
そう思っているのです。でも実際にはその恐れは両方ともハズレなんですよ。すべてをあるがままにしているとすばらしいことが起こり始めるのです。
あなたが今ここで私が話しているのを見たり聞いたりしながら頭で分析したりせず過去に学んだ内容と比較したりせず、ただ見るまま、聞くままに任せてみてください。
賛同したり拒絶したりするのは後にして、今この瞬間、ただ見るまま聞くままに完全に任せていることができますか?
そしたら どうなりますか?
すべてをあるがままにしているというのは、何かを「しよう」とすることではありません。
さっきも言ったように、すべてをあるがままに「しよう」とすると逆効果なのです。「しよう」として出来ることではありません。
ただ ありのまま安らいでいることです。すべてをあるがままにしているという教えは誤った解釈をされていることもとても多いのです。
無気力になるかのような意味に捉えたり、物事にうまく対処できなくなると考えて不安に思うのですね。
しかし、そのような不安を抱くということは、教えそのものを誤解しているということです。
すべてをあるがままにしていることは、最終目的ではなく、真実に生きるための土台なのですよ。
この土台があってこそ、人生の一瞬一瞬や毎日の生活の中で、賢明で適切な言動が「起こってくる」のです。
すべてをあるがままにしている。その状態になって初めて、エゴ意識から脱出できるのであって、いまここの出来事に抵抗して何とかしようとしている限り、条件付けされたエゴ意識から抜け出すことは決して出来ないのですよ。
すべてをありのままにしているという教えはエゴではなくスピリットによる鋭い洞察や適切で賢明な言動が「起こってくる」ための土台を培うようなものなのです
また私はすべてをありのままにしているということを「瞑想」としても教えています。
瞑想だけではなく、何にでも適用できるんですよ。
試してみれば人生のいろんな出来事に対して今まで想像もできなかったような賢明な対処ができるようになるでしょう。
しかし瞑想と言えば、やはり、とても多くの人々が自分の内側で何かをコントロールをしたり操作するようなテクニックを使っていますよね。スピリチュアリティーの意義は、ありのままの自然な状態、つまり私たちの本質に目覚めることですが、そのように何かをコントロールしたり、操作をするような瞑想法では目覚めることは出来ないのですよ。
不自然なことをやって、自然な状態が得られることはありません。
すべてをあるがままに、自然なままにしていることによって、私たちの本質はいまここに現れるのです。
時間は関係ありません。習得するべきものもないし、上達させるべきものもありません。必要なのは確かめることです。
みなさんに考えていただきたいのはここの部分なんです。
この1番目の実践方法どおり、すべてを ありのままにしているとき、「どうなるのだろう?」と確かめてください。
あなたが静かに座って瞑想しているとき「いま、すべてをあるがままにしていてどうなるのだろうか?」と確かめてください。
内側でどんな変化が起こりますか?何が見えてきますか?
どうなるのかだけではなく、「いま本当に すべてをあるがままにしているかな?」とも確かめてください。
なぜなら静けさが現れていてもそのように確認することで自分が微妙に何かを握りしめたりコントロールしようとしている微細な動きに気付いてさらに深い安らぎが訪れることがあるのです。
ですから、この教えを達成するべき目的というよりも問いかけに使ってください。
すべてをあるがままにしている状態を達成しようとしないことです。「しよう」とするということはこの教えをきちんと理解していないということになりますよ。
この教えによって、自分の状態を確かめてください。それが瞑想になるのです。
すべてをあるがままにしていることは、エゴが完全に手放される最も深い瞑想です。
あなたの思考も気分も感情もいまこの瞬間のすべてを完全にあるがままにしていることはできますか?そうするとどうなりますか?
初めに話したことの繰り返しになりますが、すべてをあるがままにしていることで、あなた本来の自然な状態である静けさが現れるのです。これが「静かにじっとしていること」という教えに帰結しますね。
すべてをあるがままにしていることが静かにじっとしているための方法、そして静けさに気付いて本当の自分に根付くための方法なのです。
静けさは、私たちの本質の主な特性です。「そうなろう」としなければならないものではなく、文字どおり、私たちの一部なのですよ。
以上が1つ目の実践方法です。

【基本実践2】私は誰? 
2つめは、これです。問うこと
さきほど話した1つめの実践方法は完全にリラックスした状態になるための誘導のようなものでしたが2つめの「問うこと」は、少し自発的・積極的になる必要がありますよ。
愛や真実と繋がるためのものであり、リアリティーへの切望であり、私の教えの中でもより大きな動きを伴う部分です。
私は誰? 私とは何?」これが私たちにとって究極的で最も深い問いです。
私たちがエゴの夢から目覚めるまで、何よりもしっかりと取り組むべき重要な問いなんですよ。
一方、「私は何を求めているの?」「私はどうなりたいの?」このような疑問は「私は誰? 私とは何?」という問いほど重要なことではないのです。
なぜなら、そんなふうに何かを求めたり探したりしているのは、いつも「私」ですよね。
「私」の正体が何なのか知らないまま、その他のことが本当に分かるわけがないでしょう。
いまここでこの画面を見て、この話を聞いているあなた、その「あなた」として生きている存在。
それが何なのか、本当に分かっていないと、人生で最もすばらしい贈り物を受け取れないことになるのですよ。
ですから、「私は誰? 私とは何?」この問いは私の教えの中でも最も重要な部分です。
他のどんな教えについても言えることですが「どのように」実践するかもとても大切なポイントですよ。
これは単に頭で考えられるようなことではないのです。
この問いに対して、頭であれこれ考えてどこかで見聞きしたイメージを引っ張り出してきたりしたら、まと外れなことになってしまいます。そんなことをしても、思考に浸ることになるだけですからね。
「私は誰? 私とは何?」この問いは、あなたをエゴが創り上げている夢の世界から脱出させる手段なのです
これはとてもシンプルなのですがかなりの着実さが必要です。
そして「どのように」問うかをきっちりと理解しておかなければなりません。
私とは何か?」こう問うとき、しっかりと自分を見てください。
「『私』と言っているものは何なんだろう?」
ほとんどの人にはここで、いろんな考えが浮かんでくるでしょう。
記憶、身元、自己イメージ、性別、世代、年齢、性格、鏡に映る姿などすべては頭の中にあるものですね。
でも、もっとしっかりと深く追求してみてください。ここで いますぐに。 
自分だと思っているものはすべて単に「思っている」だけだと分かるでしょう。
思考の産物ですね。その思考は意識の中で起こっています。あたなの中で起こっているのですからそれは「あなた」ではないのです。
あなたは 思考よりも言ってみれば一歩手前にあるということですよ。
私たちは「私の思い」とか、「私は考えている」とか、「こんな考えが私に浮かんだ」などと言いますよね。
「私」と「思考」は同じものではないということですよね。
この問いは、意識と思考の狭間の夢うつつ状態や自己イメージから私たちを目覚めさせてくれるのです。
「私とは何なのか?」と問うことで自分は思考よりももっと根底的でより親密なものだと気付くでしょう。
「私」だと思っていたイメージを除外すると何が残りますか?
何らかの感情や感覚があるという人もいるでしょう。
しかし、感情や感覚もあなたのすぐ側で起こっている現象に過ぎず、あなたという意識によって感知されているものなんですよ。
あなたが誰なのか・何なのかを知る手がかりにはなりません。
では、さらに深く探ってみましょう。
「私の中で、思考や感情や感覚が起こっているのなら、その『私』って何なの?」「いまこの話を見聞きしている『私』は いったい何?」
思考や感情や感覚をアテにしなければあなたは誰なのでしょうか?
瞑想のように静かにこの問いかけをしてください。
するとムダにあれこれ考えたりせず、自分という直接体験から答えを見つけることになるでしょう。
それが、この問いの大きな力なのです。
覚えておいてください。ここがいちばん大切なポイントですよ。あなたの最も深いところを探らなければなりません。
頭で考えて答えを出そうとしないことがこの教えを実践する上で非常に大切です。
この問いによって思考や感情から離れて自分という意識の奥底へ、深く深く入っていくことです。
「私は頭の中に浮かぶ思いや考えではない。思考は刷り込まれた条件付けに過ぎない。私は感情や感覚でもない。これらはすべて広大な私の中で起こっているだけだ。それなら、私はいったい何なの?」深く誠実にしっかり問うと静けさに辿り着きます。
言葉に出来るような答えは見つからないでしょう。
もしも、言葉に出来る答えが出てきたら、それは間違いですよ。答えは意識の次元だけに現れるのですから。
思考や感情が自分ではないと分かり始めると、自分は思考や感情を内包している「意識」なのだと気付いてくるでしょう。これが、この問いの大きな力です。
もちろん、「意識」というのも言葉ですから、「意識」という言葉にとらわれているとこの教えの全てを根本的に誤解してしまうことになりますよ。
自分という直接体験によって知る「私」は言葉を遥かに超越しているのですが、ここでは何らかの言葉で説明しなくてはいけないので「意識」や「スピリット」という言葉を使っているだけです。
私たちは描写できるものではありません。形も大きさも香りもなく言葉にできないけれど確かに存在しているので私は「意識」や「スピリット」と呼んでいるのです。
意識がいまこの瞬間も存在していて機能していることを否定できないでしょう?
仮にあなたが「いまここに意識など存在しない」と否定したとしても私の話を聞いて否定したという事実が意識がいまここに存在するという証拠になりますね。
そのようなことは意識なしには起こりえないことですから。
「私は誰? 私とは何?」このように問うことで、あなたは考えるのではなく、逆に思考から抜け出すのです。
この点が非常に重要ですね。そして、その答えをあなたはいますぐ知ることが出来るんですよ。
むしろ、いましか知ることが出来ないのです。
スピリチュアルの教えを何十年も学んでいる人でもまったくの初心者でも同じです。どれだけ長く学んでいるかなど関係ないのです。
自分の本質への目覚めはいつでもいまこの瞬間、いまこの瞬間だけに可能なのです。
目覚めは長年の修業によって起こるのではなくいまここの深い問いによって起こるのです。
他の問い方も有効なんですよ。私が勧めているもうひとつの問いはこれです。
これは本当に真実だろうか?
エゴ意識はいつもいろいろ考えたり想像したりしてそんな真実でもない信念や意見をもとに行動しますよね。
信念や意見は、結局単なる信念であり単なる意見です。
どちらも頭の中の思考であって真実ではありません。
ですが、頭の中の思考を本当に価値のある真実だと信じてしまうと私たちは幻想の世界で生きることになるのです。
私たちの思考は、時には実用的で便利な場合もあるかもしれませんが、究極の真実は含まれていません。
あなたの意見も信念もひとつとして究極的には真実でも現実でもないのです。
だからといって、信念や意見を持つなというわけでありませんよ。
信念や意見を持つことは仕方ないでしょう。
でも、どんな信念も意見も真実ではないと知ることによってとても自由になれるのです
エゴ意識は、「意見を持たなくてはいけない」とか、「信念を持つべきだ」などと言って思考に執着しているでしょう。
信念や考えや意見を基盤にした世界でしかエゴ意識は存続できないのです。信念や考えや意見はエゴ意識で生きる人々の指針のようなものです。自分や他人に対する信念や考えや意見がエゴ意識による夢遊状態の実体とも言えるでしょう。
そしてそれが、あなたを本当の自分やあらゆる存在の真実、存在そのものの真実から引き離すのです。
「これは本当に真実だろうか?」この問いはどんな状況でも使えるのですよ。
「この考えは本当に真実だろうか?」「これは本当に確かだろうか?単に思い込みだったり、信じているだけじゃない?」
そう見抜いて、別の信念や意見にもとらわれなければどうなりますか?
自分の考えであっても、他のどんな意見であっても、あらゆる考え、信念、評価、不満などが真実ではないと見抜くことはできますか?
これは、苦悩や葛藤から自由になって、愛や思いやりや感謝に満ちた、まったく新しい生き方にシフトするために非常に重要なので
すべての人にお勧めしたいことです。愛、思いやり、感謝、そして、どんな思考も遥かに超越する叡智。
問うことによって、そこへアクセスできるのです。さきほど説明したように、シンプルにしっかりと問いかけるのですよ。

【基本実践3】意識的に生きる
3つめは、意識的に生きること
意識的に生きることは、基本原理で話した「目覚めた価値観」と関わってきます。簡単におさらいをしましょう。
エゴ意識の価値観は、目覚めた価値観とは違って、分離意識 つまり、基本的に「恐れ」が土台になっています。 
エゴの世界観では、自分は、世界や他人とはバラバラで孤独で、広大無限な宇宙の中のとてもちっぽけな存在なので、根っこに「恐れ」があるのですね。
ですからエゴ意識は、ほとんど自分では気付いていなくても分離を土台にした価値観を持っているのです。
エゴは「対立」にも価値を置いているんですよ。自分が対立を重視しているなんて、思ってもいないエゴも多いでしょうけど事実そうなのです。
対立に価値を感じているから、被害者意識を持ったり、人を批判したりするわけですね。
そして エゴは、コントロールすることも重視していてコントロールを手放すことを非常に恐れています。
もしコントロールを手放したら、望み通りにいかなくなったり、安全ではなくなると思っているのです。このようにエゴは分離意識に基づいた物事や考え、信念に価値を置いています。
いま話しているエゴの価値観は、道徳的な価値基準というわけではなくただ、エゴ意識そのものが、重要だ・必要だと感じて握りしめているものですよ。一方、目覚めた意識の価値観はエゴ意識とは対照的です。
繰り返しますが、道徳的な価値基準ではなく、目覚めた意識、つまり意識的なスピリットそのものが何を重要だと感じているかということですよ。
意識的なスピリットは、「真実」に大きな価値を置いています。どんな状況でも、どんなことについても、何が本当に現実なのか、何が本当に真実なのかを重視するのです。
自分の考えを主張したり、議論に勝とうとしたりしません。ただ、何が本当に現実で何が本当に真実なのか。これは、目覚めたスピリットがとても大切にしていることです。意識的なスピリットは、「調和」も尊重しています。
あらゆる存在の本質が同じスピリットであり、すべてが究極的にはひとつであることを意識的なスピリットは知っています。
この洞察があるから調和をとても尊重するのです。同時に、「自由」を尊重します。自分だけではなく、すべての存在の自由です。
つまり、意識的なスピリットは、誰のことも、何に対しても、批判したりコントロールしたり、支配しようとしたりしません。
すべての存在が自由であることを尊重しています。
それから 「平和」。もし人々が口先だけではなく、本当に平和を尊重していたら、この世界に平和を創り出すでしょう。
でも実際は、平和を尊重するというのは建前だけで、行動が伴っていません。
それは人々が、自分の本質に気付いていないからなんですよ。
意識的なスピリットとして、自分の本質に目覚めたとき初めて、私たちは自然に本当に平和を尊重するようになるのです。
平和は私たちの本質にもともと備わっている特性なのですから。
そして 「感謝」。人生や存在、すべての人や物に対する感謝。あらゆるすべてが、ありのままであることへの感謝。
意識的なスピリットは幸せになるために何も変える必要はなく、すべてはそのままでいいのです。
想像してみてください。すべてがそのまま・ありのままで幸せなのですよ。
エゴの視点から見ると、幸せになるためには、いろんなことが変わらなければならいでしょう。
エゴは「過去を変えたい」「もちろん現在の状況も変えたい」「未来だって変えたい」などと言って、あらゆることが変わってくれたら幸せになれるかも...と思っているのです。
しかし、スピリットは、もともと幸せと感謝に満ちていて、ありのままに感謝し、ありのままの人生と存在そのものに価値を感じているのです。
スピリットはもちろん「愛」にも価値を置いています。愛は調和を実体験として知ることで自然と生まれるものです。
私たちは別々の存在ではありません。人間としての現れにおいて、個性はあるでしょうが、本質的には、私たちはひとつです。
このことに気付くとすばらしい愛が生まれるのです。あらゆる存在をものすごく親密に感じます
人生は私たちの本質の現れだと分かります。人生の広大無限さは、私たちの本質であるスピリットの現れなのです。
このことに気付くと、リアルな実感として、毎日のどんな瞬間にも人生で出会うどんな存在にも、深い愛ととても強い親密さ・親近感を感じるのですよ。
繰り返しますが、道徳的な価値基準ではありません。スピリットにとって、もともと価値のあるものであり、これは文字どおり、
私たちの本質の現れなのです。真実、調和、自由、平和、感謝、愛。
この目覚めた価値観が本当の自分の本質なのですから、そういう価値観に「なろう」とする必要はないのです。
「なろう」とするのはエゴ的な観点です。この価値観は、本当の自分の真ん中から、自然と現れてくるのですよ
「すべてをあるがままにしていること」と「私とは何なのか問うこと」を通して目覚めることが最も重要なことです。
そして、意識的に生きてください。
この目覚めた価値観は、外側から取り入れなくても、内側で発見できるのですよ。あなたの本質なのですから。
「静かにじっとしていること」と「問うこと」を通して、この目覚めた価値観を持った本当の自分を発見するのです。
スピリットは決して、分離意識、つまり恐れ・批判・コントロールなどを土台にして生きません。真実、調和、自由、平和、感謝、愛
この価値観をもとにスピリットは生きているのです。
繰り返しますが、この価値観はエゴが努力して身につけるべきものではなく、あなたの本質がもともと持っているもので、あなたによって発見されあなたによって生きられるのを待っているのですよ。「意志的に生きること」とはこういうことです。
スピリットがもともと持っている価値観を発揮して生きることです。
本当の自分はスピリットだと気付けばこれは簡単にできるでしょう。
そして、意識的に生きることは自分だけではなく、全世界にとっての幸福につながるのですよ。真実の愛の表現です。

さあこれで基本的な実践方法を3つお話ししました。
最初にも言ったように、基本が最も重要です。みなさん複雑で難しい教えを求めますが、基本は見失いやすいものです。
今回話した基本的な実践方法や前回話した基本原理よりももっと複雑な教えもありますが、それでも最も大切なのは基本なんですよ。
家と同じですね。土台がしっかりしていないと家は倒れてしまうでしょう。
もっと複雑で細かい教えもあるけれど、スピリチュアルの教えは、基本が98パーセントです。
スピリチュアルの教えに慣れてくると基本はもういいから新しいことを学びたいと思うかもしれませんが、絶対に基本から動かないでください。決して基礎から離れてはいけません。
なぜなら、この基本の中に、この基礎的な真実と原理の中に、とてつもなく深く微細で核心的な叡智と愛、そして目覚めの実現が含まれているのです。この、ごくごく基本的な教えの中に真実と存在の神聖さを発見するための生きた啓示が隠れているのです。ですから、基本から決して離れないでください。
正直に、誠実に、意志と愛をもって実践すれば、この基本的な教えが、あなたを今まで想像もできなかった世界に連れていってくれるでしょう。


2014年1月24日金曜日

アジャシャンティの「基本原理」

知人から、現代アメリカで、人気が高いスピリチュアルな教師の一人、アジャシャンテイを紹介されました。

本名はスティーヴン・グレイと言い、1962年カリフォルニア生まれで、少年時代は学習障害(LD、発達障害の一種)と診断されたこともあったようです。

ロサンジェルス禅センターの前角(まえずみ)博雄老師の在家の弟子のアーヴィス・ジョエン・ジョスティという主婦が、たまたまスティーヴンの家の近くに住んでいたため、19歳のときから彼女に禅の指導を受けました。25歳で最初のスピリチュアルな覚醒体験をし、そのあとも父親の機械店を手伝いながら参禅を続けます。


1996年,32歳の時にアーヴィスから人を教えてはどうかと勧められ、叔母さんの家のガレージを借りて談話会を開きます。最初は数人の参加者でしたが、評判が高まりどんどん参加者が増え、数年後にはホールを借りて、数百人の参加者相手に話をするようにまでなります。このころアジャシャンティ(サンスクリット語で根源的な平和)というスピリチュアル・ネームで活動するようなりました。


今では、彼が代表をつとめる非営利団体オープン・ゲート・サンガのリトリート(合宿)は人気が高く応募者が殺到するので、抽選で参加者が決定されているそうです。


「Down The Rabbit Hole」というブログで基本原理1~4及び基本実践1~3を翻訳し、掲載してくださってありました。   
テーラワーダ仏教と禅に基づいた思想が現代的な表現でわかりやすく説明されており、とても参考になります。
http://rabbithole0.blogspot.jp/2013/08/blog-post_8.html 


【基本原理1,2】苦悩の根本原因
スピリチュアルの教えに親しみ始めると基本的なことを見失ってしまう人がとても多いのですが、どのような教えにおいてもごく基本的でシンプルなところをしっかりと理解しておくことがすべての人にとって最も重要なことの一つなんですよ。
そこで、まず最初に私の教えの基盤をあらためて簡潔に説明し、次に、その教えを実際どのように活かせばよいのかお話ししていきたいと思います。

私の教えの基盤は4つの「基本原理」に要約できるでしょう。
1の基本原理は、こうです。
あらゆる悩みや苦しみはエゴ意識を「自分」と混同していることが原因
エゴ意識を「自分」と混同してしまうと私たちは「無意識」な状態に陥って自分の本質に気付けなくなります。
エゴ意識に囚われ、エゴ意識を「自分」と思い込むことによってあらゆる悩みや苦痛が生まれる。
これが第1の基本原理ですね。
大多数の人々がほとんどいつもエゴ意識で生きています。人間というものは個人的にも、集団的にもエゴ意識に圧倒的に囚われたまま日々の生活を送っているんです。私たちが暮らしているこの世界は人間の集合意識によって創り出されている世界なのですよ。
人間の集合意識は圧倒的にエゴ的な構造に支配されているので、この世界での私たちの振る舞いや人間関係などは、やはり、エゴ的な構造に基づいたものになっているわけです。
そのようなエゴ意識に囚われた在り方こそがすべての悩みや苦しみの「根っこ」なのだと知ることはとても重要なのですよ。
そして、エゴ意識があらゆる苦しみの根本原因だからこそ、その正体をよく理解しておくべきなのです。
先ほど言ったように、私たちがエゴ意識に囚われていると「眠っている」状態に陥って、自分の本質に気付けなくなるんですね。
私たちの本質とは何なのか本当は言葉で描写することなどできないのですが、スピリチュアルの教えはとりあえず言葉で説明する必要があるので、私は便宜的に、「意識的なスピリット」と呼んでいます。
この第1の基本原理をしっかり理解しておくことはとても重要ですよ。
普段 私たちは悩んだり 苦痛を感じたりするとき「外側」に原因があると思いますよね。
「思い通りにいかない」、「自分は理想的な人間ではない」、「こんなことが起こった」など状況や環境、何らかの出来事のせいで苦痛を感じるのだと思い込みます。
しかし、本当によく確かめてみると、私たちが悩んだり苦しんだりするのは、「思考パターン」と自分を混同していることが、本当の原因だと分かってくるでしょう。
これは第2の基本原理につながっていきます。

第2の基本原理はこうです。
エゴは 頭の中の創りもの
分離意識に基づいて、ぐるぐる繰り返す思考パターンによって創り出されているもの。それがエゴなのです。
どういう意味なのか分かりますか?エゴというものは基本的に、「自分」という感覚であり、また、その「自分」という感覚にくっついている思考や信念でもあります。それらが かたまりになったものが「私」という確固とした自己感覚になっているんですね。
「私」という自己感覚は頭の中で創り出されているイメージなんです。
さきほど言ったように、ほとんどの人間はこの頭の中の自己イメージを本当に「自分」だと思い込んでいるのですが、その自己イメージは分離意識に基づいてぐるぐる循環する思考パターンでしかないのですよ
そして、この自己イメージに過ぎないエゴがいつもいつも幸せや平和を探し求めています。
でも、エゴが見つけ出す幸せや平和というものはどんなものであっても長く続くものではなくあっという間に過ぎ去っていくので結局ほとんど満たされることはないのです。
ですから、「自分」という感覚をすべて根底から本当によく確かめることはとても重要なのです。
どんな自己イメージだろうとすべては延々と果てしなく繰り返す思考パターンであり、このような思考パターンは、分離意識 つまり「私たちはバラバラの個別の存在だ」という誤った認識が土台になっています。
「私は他人や世界とは別々の存在だ」これが意識的にしろ無意識的にしろエゴの世界観なんですね。
広大無限な人生にどこか恐れを抱きながらバラバラの個人として生きている。
それでもエゴは人生を見つめて幸せになろうとする。そして、エゴは決して幸せが見つけられない場所で幸せを探し続けるのです。
「外側」には、永遠に続く本当の幸せなど存在しません。外側で見つけた喜びはどんなものでも一時的なものであり必ず通り過ぎていくのですから。
「あらゆる現象は来ては去って行く」ブッダは2500年以上前にそう言っていました。
私たちが抱く「自分」という感覚がどのような仕組みになっていてエゴがどのように創られているのかをよく理解することは非常に重要なのですよ。
繰り返しますが、少なくとも基本的にはエゴは頭の中の創りものなのです。ですから、あなたが「これが私だ」と思っていても、まさに、単に そう「思っている」だけなのです。「これが私だ」と信じるように教え込まれたのですね。
自分に対する信念、考え、評価などの集合体を個人としての「私」として頭の中で創り出しているのです
自分の本質が何なのかなど気にしたことがない人はこの話を聞いて驚くでしょうね。本当の自分は決して頭で考えられるものではないのです。
「これが自分」と思っているもの、「これが誰々」と思っているもの、「これが世界」と思っているもの、それは全て文字どおり「思っている」だけであって単なる思考に過ぎないのですよ。
このように、私たちが「思考中毒」と言えるほど思考をガッチリと抱え込んでいたり、さらに思考と自分を混同していることがあらゆる苦痛や悩みの根深い原因なのです。

【基本原理3,4】本当の自分への目覚め
あなたの意識の中心が本当の自分であり、すべての起点です。自由や平和、そしてスピリチュアルな目覚めも「外側」ではなく自分の中に在るのですよ。本当の自分を「知っている」と思わないで「自分とは何なのか?」と問いかけること。これがまずは最も大切な第一歩なのです。
心を開け放って「私が自分だと思っているものは本当は自分ではないかもしれない」「自分とは何なのか?」そう問いかける意志を持つことです。
スピリチュアルの道を歩む人たちはよく「スピリチュアル・エゴ」を創り上げます。「スピリチュアル・エゴ」とは、基本的にスピリチュアル探求者で自分が探し求めているもの、たとえば神、覚醒、幸せ、自己実現、平穏などに対するイメージを抱きいわゆる「スピリチャルな人」になります。
スピリチュアル探求者になると私たちは 自由や幸せを手に入れるために「何かを探求しなくてはいけない」「どこかへ到達しなくてはいけない」という思考パターンを創り上げます。
第2の基本原理は「エゴは頭の中の創りもの」でしたね。分離意識に囚われた信念を土台にして延々と繰り返す思考パターン。
「神も 平穏も 幸せも 愛も 自分とは別のものだから手に入れなくてはいけない」
このエゴの信念が私たちの苦しみや悩みの大きな原因でありスピリチュアリティーにおいて真っ先に消し去るべき幻想なのです。
スピリチュアルの教えは、エゴ意識から脱出して本当の自分がいったい何なのかを知り
新しい認識にシフトするチャンスを私たちに与えてくれるものなんですよ。
ちょっと立ち止まって「私が自分だと思っている『私』は本当の自分ではないのでは?」と問いかける意志からすべてが始まります。
自分のことをいい人だとか悪い人だとか、価値があるとか無いとか、スピリチュアルな人だとか、探求者だとか...どのように思っていようが、分離意識から感じていることは、すべてが単なる作り話なのです。
「これが私」という確固たる自己イメージを「本当にそうなの?」と疑う好奇心を持つことがスピリチュアルの目覚めと幸せや平和の実現のために絶対的に重要なポイントなのです。

さて、第3の基本原理はこうです。
本当の自分に目覚めることでエゴ意識から解放される
意識的なスピリットとして、本当の自分に目覚めることによって、自由と真実のすべてを知ることができるのです。
エゴ意識から解放されるなんて、すごく難しいことでかなりの努力や年月が必要なんじゃない?と、 みなさんは思っているでしょう。
でも、ちょっと思い出してみてください。エゴとは何だったでしょうか?
エゴとは単に、分離意識による信念を土台にして延々とリピートするひとりよがりな思考パターンであって実体など無いのですよ。
単なる思考パターンだからこそ長年「自分」と混同していたらある意味しつこいかもしれませんね
それでも単なる思考パターンなのですから崩壊させるのは不可能ではないのですよ。
実際にはみなさんがイメージしているよりもずっと簡単でそんなに時間もかからないことでしょう。意識的なスピリットとして、本当の自分に目覚めることで、エゴ意識から解放される。これが第3の基本原理です。では、「意識的なスピリット」とは何なのかお話ししていきましょう。
エゴとは、今まで説明してきた通り、思考への中毒、執着です。
思考を取り除くことはできません。思考と戦おうとしても、思考と同じ土俵に留まり続けることになるだけで無意味なんですよ。
「思考をストップさせる」「イヤなことは考えないようにする」「自分が望むことだけを考える」こういったことがスピリチュアルの修業として、ずいぶん長い間 行われてきたのですが、そのような努力をすること自体根本的な誤解をしているということなので、結局うまくいかないのです。思考と自分を混同することで苦しみが生まれるのなら「思考を排除しなければならない」そう誤解しているわけですね。
でも、苦しみの原因は思考そのものではなく、思考を「自分」と思い込むことなのですよ。ここはしっかり理解しておかなくてはいけません。
思考と自分をゴチャ混ぜにすることが問題の核なのに、思考そのものが問題なのだと誤解して思考を止めようとしたり望ましいことだけ考えようとしたりしていたら大変なエネルギーと時間をムダにすることになりますよ。
思考が悪いわけではなく、思考と自分をごっちゃにすることが苦悩の原因なのだと気付くことです。思考と自分を混同するから分離意識が生じてエゴを創り上げるのです。
頭の中で展開していることが幻想だと気付いてくると思考は自分ではないということも分かってくるでしょう。
思考はあなたではなく、何者でもなく、単にあなたの中で起こっている現象なのです。これが基本的に理解しておくべきことですよ。
「思考は自分ではない。自分の中で起こっているだけなのに自分と混同しているのだ」と気付いて思考と戦うのを止めると本当の自分は思考が創り上げているエゴではなく他の何かなのだと気付き始めます。
それでは、本当の自分とは何なのでしょうか?
思考が自分の中で起こっているのなら、いったい何の中で起こっているというのでしょうか?
このことについて話すとき、私は「意識的なスピリット」という言葉を使います。
私たちの本質は言葉で表すことができません。形もなく見ることも触れることも出来ません。
なので、「スピリット(精神/魂)」という言葉を使っています。スピリットは存在するけれど形の無いものですからね。
そして、「意識的な」と言うのはなぜかと言うと、ここが大切なところなのですが、私たちはみんな、ある意味、意識がありますよね。
では、何を意識していますか?
さきほど話したように、ほとんどの人は、意識を思考と混同していて、夢を見ているような状態なのです。それでエゴが出来上がっているわけですね。でも、思考は自分ではないと分かってくると、私たちの意識は自然と意識自体へ戻って来るのです。
本当の自分という、言葉で表せない存在が意識を取り戻し始めます。
あなたは いつでも常に「スピリット」であり、言葉で表せない存在なのです。そうでなかった瞬間など今までだって一度も無いのです。
本当の自分以外になんてなれるわけがないでしょう?
本当の自分でいることを中断することなんてできないのですから、今までもこれからも、いつでも常に本当の自分でしかないのです。
だけど、それを意識できていないことはあるのですね。
本当の自分に気付いていないとエゴを自分だと思ってしまうわけです。
ですから、私たちが目覚めて自分は思考が創っている自己イメージではなく実はスピリットなのだと気付くと、その瞬間、スピリットに意識が戻るのです。スピリットが言葉で表せない意識ある存在としてスピリット自らを意識するのです。
ほとんどの人は本当の自分がスピリットだなんて教えられることはなく、特定の個人なのだと教えられますよね。
どこで生まれたとか、どういう経歴があるとか、どんな性格だとか、男か女かとか、そういう定義が「自分」だと教えられます。
自分も他の人もあらゆる存在が本当はスピリットである。そんなふうに教えられて育つ人はほとんどいないでしょう。
私たちが本当の自分を知り本当の自分に目覚るためにスピリチュアルの教えがあるのです。
本当の自分であるスピリットがスピリット自らに気付いて意識を取り戻すこと。それが、スピリチュアルの目覚めなのです。

では、第4の基本原理に行きましょう。
目覚めた価値観
目覚め後の価値観は道徳的な価値基準とは違います。私たちは、良いこと、悪いこと、正しいこと、間違っていることなど道徳的な価値基準や競走に勝つこと、成功すること、何かを獲得することなどの人生における物質的な価値観も教えられますよね。
特にアメリカの社会や西洋文化では何かを獲得すること、たとえば多くの物を所有すること、お金を増やすこと、たくさんの経験を積むこと、より美しくなったり、美貌をキープすることなどにとても大きな意義が与えられます。
そして、文化が変われば物質面も 道徳面でも価値観は多少変わりますね。
目覚め後の価値観は道徳的な価値基準とは違って「こうすべき」という判断に基づいたものではありません。
目覚め後の価値観は私たちの本質にもともと内在しているのです。
私たちが意識的なスピリットとして本当の自分に目覚めると同時にその内在した価値観にも気付き始めます。
新たな道徳観を得るというわけではなく、スピリットがもともと持っている価値観に気付くということですよ。これはとても重要なことです。そうでないと世間で教えられたエゴ的な道徳観や価値観に囚われたままになってしまいます。人はみんな「価値がある」と信じていることを指針にして生きていくものですからね。
エゴは競走に勝つことや賛同してもらうこと、愛されることなどに価値を置きます。
また、コントロールすること、被害者になること、加害者になること、人を責めたり批判したり何かを激しく非難することなどに価値を感じるエゴもあります。どちらにしても、エゴは「分離」に価値を置くわけですね。エゴの価値観はどんなものでも分離意識が土台になっているのです。
しかし、目覚めたスピリットの価値観はまったく違います。
誰かに教え込まれるものではなく私たちの本質がもともと持っていて自然と気付くものなのです。「真実」は私たちの本質が持つすばらしい価値観なんですよ。真実に生きること。真実であること。それから「調和」。調和とは つまり真実なのです。真実においてはすべてが ひとつなのですから。私たちの目には、あらゆるものが違っていて個性があるように見えますが、その奥に隠れている本質はやはりスピリットなのです。あらゆる全てであるスピリットが自らを表現しているのです。
あなたが見るもの聞くもの体験すること、意識的な存在であろうとひどく無意識な存在であろうとすべてがただひとつのスピリットの現れでありそれ以外のものなど何も存在しないのです。
目覚めたスピリットはこのワンネス・調和に価値を置き、そして、「自由」に価値を置きます。自分のためだけではなく、あらゆる存在のために。
それから、平和、感謝、愛。いま挙げたのは私たちの本質が持つ価値観のほんの一部なんですよ。私たちの本質は根本的な「善」なのです。すばらしいことですよね。
善といっても世間的な道徳観で考えるような「悪」に対する「善」ではありませんよ。
そうではなく、私たちの本質にもともと内在するもっと深いものです。
とは言っても私たちが目覚めたら「聖者」のようになるわけではありませんよ。
人々が目覚めに対して抱いているイメージは実態とは違ってひどく歪められているのです。
ですから私たちは本当の自分・真実を知るために自己イメージだけではなく目覚めや覚醒にまつわるイメージもすべて手放さなければなりません。
自分の本質に内在する価値観を知ることで私たちはスピリット自らの表現である、あらゆる存在とつながることができるのです。
私たちが自分の本質に目覚めてそこに内在する価値観にしっかり気付き始めると私たちはその価値観に導かれ、この世界での在り方、周りとの関わり方、日常生活での生き方などがまったく新しいものにシフトしていきます。
その価値観に従おうと考えるわけではなく自然とそうなるのですよ。すばらしいことですよね。
さあ、これで私の教えの基本原理を4つとも話しました。

次は、いま話した教えをあなたが自分で実感するため、実際に目覚めるためにどのように活用すればいいのか話していきましょう。